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松本の夜、怪しい男。

その日、松本の夜は空気が冷たかった。前日は長野に泊まり、夜は郷土料理と日本酒、蕎麦を堪能したのでその日はワインが飲みたくなり松本市内で美味しいワインが飲める店を探した。

ググって見つけた店のレビューと写真を見て即決。店選びにはあまり時間をかけない。どうせひとりだし、イマイチなら少し飲んで店を出ればいい。

松本の夜は空気がピリッとしていて白い息で眼鏡が曇る。マスクのせいでやたら曇る。先日買ったMHLのデニムジャケットの襟を立て、ポケットに手をツッコミ、肩をすぼめながらワインバルへの道を歩く。歩きながらグーグルマップの音声案内が街行く人に聞こええないようにボリュームを絞る。

宿から15分ほど歩いて店の前い着いた。大きくはないが綺麗な店構え、18時と時間が早いせいか店内に客はひとり。カウンターに座る女性、店の人と話す様子から常連客のようだった。

ドアを開けると店の人が声を発する前にカウンターの常連客がこちらを見る。少し間があって「いらっしゃいませ。」と店の人。「ひとりなんですが、だいじょうぶですか?」「空いてる席へどうぞ。」ボクは二人用のテーブル席についた。ひとりだけどなんとなくカウンター席には通されていない空気を察した。

席についたボクはジャケットを脱ぎ、曇った眼鏡を外しポケットにいつも入れてある東レのトレシーで拭き、掛け直して店内を軽く見渡す。

「長野のワインが飲みたいのですが。」

「あちらの黒板にある三種類がグラスで飲めます。一番上の白は長野のワイナリーで作られてるんですが、山形の葡萄を使ったものなんです。」

他の二種類はオーストラリアとスペインのワインだったのでボクは一番上の白ワインをグラスで頼んだ。ワインは赤より白が好きだ。肉を食べる時でも白がいい。そんなことより、簡単に説明してくれた店の人にあまり笑顔がないことが少し引っかかった。

よし、何か食べ物の注文しよう。メニューブックを見る。どれも美味しそうで決められないので店の人に尋ねてみた。

「何かおすすめはありますか?」

「うーん、どれもおすすめですけどね…。」

ん?それは答えになってない。どれもおすすめだから商品としてメニューに書いてあることはもちろんわかっている。でもその中で何かしら人気があるものや自慢の一品があるだろう。いや、ボクが聞き取れなかっただけなのかもしれないな。そう感じながらも無難なポテサラとオムレツを頼んだ。ボクは少し考えた「こりゃ、入った店が悪かったかな?」

すぐに注文したワインが出てきた。黒の不織布マスクをはずし、心を落ち着けてワインをひとくち飲む。美味い。それほど甘くはなく、適度な酸味があって葡萄らしい香りとしっかりとした旨味が広がる。とか言ってワインのことは何もわからないが、今までに飲んだどんなワインよりも美味しい気がした。

”なんだ、あまり気持ち良い対応をしてもらえた感じはしないけど、ワインが驚くほど美味いな…。でもポテサラがイマイチだったら一杯飲んで出よう”

頼んだポテサラが運ばれてきた。ポテサラの上に半熟卵が乗っている。実は火が通っていない黄身が苦手だ。白身はもっと苦手。でも大人だから堪えれば食べられる。最初は卵が乗っていない部分をつついて食べてみた。うむ、美味い。そして避けようもないぐらい半熟卵が主張しているので卵が乗った部分を食べてみた。んぐぐ、うんまい。なんだこれ。目深にかぶっていたキャップを少し上げて厨房の方に目をやる。

ワインもポテサラも驚く美味さ。完全に「ウマッ!」という顔をしていたと思う。その顔を見られていたかどうかはわからないが、店の空気に溶け込めずにいたボクはワインとポテサラの味に魅了され気持ちが緩んだ。その後に運ばれてきたトリュフ風味のきのこオムレツも素晴らしく美味しかった。

気づいたら一杯目のワインを飲み干していて、店の人が優しく声を掛けてくれた「何か飲まれますか?」一杯目のをもう一度注文しようかと思ったけど同じじゃアレかなと思い別の赤を注文。飲んでみたけどやっぱり一杯目の方が美味しかった。おかわりしておけば良かった。

「さっき一杯目に飲んだ方、すごく美味しいですね。」店の人に声をかけた。するとそのワインについて丁寧に話をしてくれて、まだ新しいワイナリーで自前の農園の葡萄が十分に育っていないこと、その関係で山形の葡萄を使っていることなどを教えてくれた。

"あれ?ワインも料理も美味しいし、店の人はすごく丁寧じゃないか。”

最初はハズレを引いたかと思って警戒していたのに、すっかり味と接客に満足していることに気がついた。あれれれ。どうして最初はいまいちな感じがしたのだろう。二杯目のワインを飲みながら、三品目の料理(何を頼んだっけ?)をつまみながら考えた。

そうだ、置いているワインと料理に自信があって、ふらっと入ってきた客に「らっしゃいまっせぇ⤴♥」と居酒屋みたいな愛想を振りまいて媚びる必要がない店なんだ。ワインを飲み、料理を口にすれば客は虜になってしまうことを知っているし、笑顔を売っているのではなく、美味しいワインと美味しい料理を提供するプロ中のプロなんだな。

店のドアを開けたら「らっしゃいまっせぇ⤴♥」の声と笑顔、そして「えぇ〜三重から来られたんですか♪」というありきたりなやり取りなど、無意識のうちにキラキラ笑顔の接客を期待していたのだ。そんな自分を恥じた。そして二杯目を飲み干し、もう一度最初に頼んだワインを注文しようかと思ったけど酒が弱いボクは諦めた。ここはサラッと帰ろう。

ポテサラをぺろり

「ごちそうさまでした、本当に美味しかったです。」そう言って支払いを済ませて帰り支度をして立ち上がる。

この日の松本の夜は寒かった。ワインと美味しい料理で少し火照っていたが、来た時と同様に帽子を目深に被り、黒い不織布マスクをつけてデニムジャケットの襟を立て、帰りのドアの前に立った。そしてガラスに写った自分の姿を見てハッとした。

どっからどう見てもただの不審者じゃないか。

コロナ禍以前だったら店にも入れてもらえなかったかもしれない。女性二人で切り盛りされているワインバル、そんな怪しい男にはじめっから明るく笑顔で対応できるはずがない。店に入ったときには自分の風貌がこれほど怪しいものだとは思っていなかった。むしろ襟を立ててイケてるぐらいに思っていた。店の人はなんにも悪くない。

お釣りを受け取ったボクは「ご、ごちそうさまでした、美味しかったです。」意識してさっきよりワントーン低めの良い声で言って店を出た。「ありがとうございました」と店の人。

この日、松本の夜は空気が冷たかった。店を出たとたんに怪しい男の眼鏡はまた白く曇った。


松本で飲んだのは「デラ空洞2021」という白ワイン。帰ってきてどこかで手に入らないものかとたくさんググった。やっと見つけて2本オーダー。その後SOLD OUT。レヴァン・ヴィヴァンという長野県東御市にあるワイナリーでご夫婦ふたりで運営されているらしい。かわいいラベルのイラストはYUNICO UCHIYAMAさんという方だそうだ。
レヴァン・ヴィヴァン → https://lesvinsvivants.jp

そして名前は出さないが、松本のワインバルは本当に良い店だったのでまた行きたい。次回はホワイトジーンズにラルフローレンのポロシャツ、ピンクのサマーニットを肩にかけ、できるだけ爽やかな風貌で入店したい。


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