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【文学】良き小説を書く決め手は、悪人を書けるかどうか?!

清濁併せ呑む人こそが
作家に向いているのではないか!
というお話です。

小説好きや本の虫は、
俗っぽさからは遠い人が多い。
でも、それでは
小説書きには向きません。

人間の悪や俗さやダサさ、醜くさが
うまく書けてこそ、
人間らしい小説になるからです。

ドストエフスキーを見て下さい。
ディケンズを見て下さい。
ボヴァリー夫人を思い起こして下さい
村上春樹を思い起こして下さい。

「清濁併せ呑む」ことこそ
人間通になる道です。

本を読み漁る人間は、
ついつい、
知性や教養や蘊蓄、見識を
身につけがちですが、
いくら蘊蓄や教養があっても、
悪や俗や醜を書く力は得られません。
悪や俗は、価値がないものとして
軽んじがちだからです。
 
悪人やスノビズムを
魅力的に、
またはリアリティたっぶりに
書けない人は
良きフィクション作家には
なれないものです。

ペラペラな悪しか描けなかった私は、 
だから、小説家になることを
諦めるしかなかったのです。

いくら、文学論や文章教室みたいな
記事を書いたとしても、
真実とは何か?とか
人生とは何か?とか
人間とは何か?などなど
耳障りがいい、キレイごとで
とどまっていては、
人間理解について、
片手落ちになるんですよね?

俗っぽさ、悪人ぽさこそが、
実は物語や小説には
とても必要で重要な要素です。  
それを、わたしは忘れていたんです。

悪を書けない人間からは
本当の人生が出てこない。
俗な人を書けない人からは
本当の人間が出てこない。

なぜなら、この世には、
悪人や俗人がたくさんいるから。
教養では立ち向かえない
苦しみや哀しみが溢れているから。

私みたいに
キレイごとを書いていては
地に足がつかないペラペラした
記事しか書けないでしょうね(汗)。

だからこそ
「清濁併せ呑む」人間に
なりたいと、
いつも願っているのですが、
文学や小説について
考えようとすると、
ついつい、キレイごとになる。
これはわたしの悪いクセだ(汗)。

ここ1年近く、
作家や小説について書いてきたけれど、
「清濁」の「清」の側面ばかりに
目が行きがちでした。

本当に人間をよく観察し、
本当の人間通になるためには
己の悪や他人の悪を
よく見、書いていかなくては。

人間の世界は、
悪人や狡猾な人や
不条理な出来ごとに
満ち満ちているからです。

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