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贈り物は突然届く

28歳で結婚し、29歳で家を買って、30歳で妊娠し、31歳で転職して、32歳で離婚に至った。

わたしはいま33歳で、16歳のころ好きだったバンドの曲を聴きながら人生に迷っているような気がする。子どもはいない。心拍の確認はできたけど、その後流れた。

ずっと大人になんてなりたくないと思っていた。大人になることは悲しいことのような気がしたから。だけど、今は大人になった自分が楽しくて仕方がない。自分の時間もお金もすべて思うままに使える。そして若いころよりもそれらはずっと余裕がある。

そんなわたしはいま都内の実家で悠々自適に暮らしている。家事はたまにする。そこそこの金額を生活費として入れてはいるけれど、立地を考えると周辺の家賃相場には到底及ばない。のびのびと暮らせる実家があることがまず大変ありがたい。たまに一人暮らしをしてみたい気持ちになるけれど、家族と仲良く過ごせることは、それはとても幸せなことだと思う。

わたしは大人になった。
もう朝帰りをしても怒られなくなった。

だけど両親に幸せな報告ができなくて申し訳なく思う。ごめんね、だけど、小さな幸せならわたしの中に積み重ねている。いつか崩される塔だとしても、今のわたしを支えるのには十分だ。

幸せになることは親への恩返しだと思って生きている。いつかその日が来ることを、願う。祈る。努力する。それに相応しい美しい人間になりたいと思う。伸びやかで、自由で、何にも縛られない。だけどわたしは、誰かを愛しく思って暮らしたい。愛しい誰かに時間や何かを捧げることを、幸せだと思って生きていたい。いつか、いつかまた、誰にも崩されず、搾取されず、積み上げてゆく幸せを優しく包んでゆける誰かと出会う日まで、わたしは気高く生きてみせる。

2020/10/09

あとがき

昨年10月のわたしの、自分自身も気付かない「幸せになる準備」がすごいなあ、と、当時の文章を読み返す度、思う。夫に出会う直前のわたしは、まさにあとは「出会うだけ」だったのだ。

The gift will suddenly arrive, if you are ready for it.

10年近く前から好きな言葉。だけど、わたしはこれを実感したことがなかった。それなりに日々満たされていたから、天からの贈り物のような特別な何かを受け取ったと感じることはなかったのだ。或いは、この言葉通り、わたしはその贈り物を受け取る準備を何一つしてこなかったのかもしれない。現状に満足していたから。それは別に、悪いことではないけれど。

離婚後、実家に舞い戻り空っぽになったわたしは「いつか」を夢見る少女(33歳...)になった。いつか素敵な人に出会って幸せになれると信じてやまなかったのだ。その一方で、この先ずっとひとりでもそれはそれで幸せだと思えるくらい、相反するふたつの気持ちを大切にした。つまり、わたしはこの先何があっても絶対に幸せで、素敵な女性としての生涯を歩む、ということだ。それは自らの努力に基づいた確信だった。仕事に本気で向き合い、美容と健康にこれまでにないほどお金を費やし、何にも縛られず、自由に暮らし、人生でいちばん自分のことを好きになった。

わたしはだから、わたしを幸せにしてくれる誰かを探すのではなくて、わたしの幸せを分かち合いたいと思える相手に出会いたかった。

夫のことを、初めから良いなと思っていたかと言うと、そんなことはない。なんだコイツ、と思ったこともある。ただ、心地が良かった。この人の話をもっと聞きたい、わたしの話をもっと聞いて欲しい。そうしてわたしの気持ちが「この人にわたしの日常になって欲しい この人の日常になりたい」という愛情に変わるまで、そう時間は必要なかった。今でも、彼がわたしに「また明日」と言ってくれた夜のことを覚えている。

あの夜、わたしは救われたのだ。
拭いされない悲しみも、心の深い傷も、なにもかもがどうでもよくなった。この人の明日に存在すること。それを許された幸福感。単なる日常が何よりも嬉しいと思った自分の気持ちを、絶対に忘れたくないと思った。夫との出会いは、まさに天からの贈り物だった。

贈り物は突然届く。もし、あなたにその準備ができているのなら。

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