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【短編小説】 木の精霊 ー「星の王子さま」冒頭文のオマージュー

 六つの時、庭のツツジを観察していて、気がついたことがあります。木は、長い期間じっと佇んでいたかと思うと、ある時期から急に若芽を発展させ、またじっと佇んで、というのを繰り返しながら大きくなっていくのです。
 僕はそれが幼心に不思議でなりませんでした。人間や動物は、日に日に少しずつ成長していくのに、どうして木はそうではないんだろうって。
 あれは確か、僕が八つか九つの頃だったと思います。長い冬が終わり、雪溶けの時期を迎えたばかりのある日、ツツジを植え替えるために父さんと根を掘り起こした際、びっしりと生えた根系を目の当たりにして、往年の疑問は解決の日の目を見たのでした。
 ああ、そうか、木というものは皆、僕たち人間からしてみればじっとしているように見えても、実は、見えない地中で根を張り巡らせ続けているんだ。人間よりも遥かに長い一生のなかで、絶え間なく、根や幹や枝を伸ばし続けているんだ、と。
 その体験を機に、僕はひとつの大胆な仮説を立てました。それは、木々の生きる目的が、自由奔放なダンスを踊ることにあるのではないか、というものです。(実際、彼らの一生を定点カメラで録画して、思い切り早送りで再生したら、踊っているようにしか見えないはずなのです)
 何を馬鹿なことを、とあなたは思うかもしれません。事実、小学校の写生の授業で、校庭の楓の木を好きなように描いて先生に見せたら、
「ふざけてないで真面目にやりなさい!」
 と叱られたこともあるくらいです。その絵とは、地面を表す横線の上に、立ち昇る湯気みたいな無数の枝がクネクネと生えていて、下には触手のようにウネウネとした根が、これまた無数に伸びているというものでした。当時、大きくなったら絵描きになることを夢見ていた僕は、楓のダンスを忠実に写生したつもりだったのですが、
「変なクラゲの絵なんか描いてないで、ちゃんとやりなさい!」
 カンカンに怒っている先生を見て、一気に興醒めしてしまいました。僕が描いたのは変なクラゲじゃなくて、踊っている楓の姿なんです。必死に説明しても、沸騰したヤカンみたいになっている先生は、取り付く島もない有り様でした。
 放課後、意気消沈しながら帰宅した僕は、その絵を両親にも見せてみました。ふたりからなら、きっと称賛と賛同を得られるはず。そう心密かに期待していたものの、
「デタラメな絵を描くのはいい加減やめにして、地理と歴史と算数と文法に精を出しなさい」
 と、まるで取り合ってもらえませんでした。
 そういうわけで、僕が絵描きになる夢を捨て去るまでに、長い時間はかかりませんでした。大人たちときたら、自分たちだけではなにひとつ分からないのです。始終、これはこうだと丁寧に説明してあげても、頭ごなしに否定されたり、適当にあしらわれたりするだけなので、子供は、次第にくたびれてきてしまうんですね。
 仕方なしに、絵に対する情熱を揉み消した僕でしたが、木に対する愛情をはじめから無かったことにするのは、やっぱりどうしても無理でした。
 そこで僕は、中学に上がると同時に、町のあちこちの図書館に通い詰め、果樹の栽培方法について自分なりに勉強しました。そして、十代後半から二十代前半までの間にコツコツ働いて貯めた資金を元手に、地元の平野の隅に捨て置かれていた耕作放棄地を、破格の値段で買い取りました。
 僕は、かねてからの念願だったブルーベリー農園を始めたのです。
 
 理想と現実とは、なかなかどうして大きく乖離しているものです。農園の運営は、本当に一筋縄ではいきませんでした。
 望んでいた収穫量を得られなかったり、反面、ようやくまとまった量のブルーベリーを確保できるようになったと思ったら、今度は思うように売れなかったり。ことあるごとに様々な壁にぶち当たり、その度に挫けそうになりました。
 あの頃の僕ときたら、嵐の大海原を、ボロボロのイカダで難破しているような毎日でした。次々に襲い来るピンチをどうやって切り抜けたのか、今になって振り返ってみても、まるで思い出せないのです。きっと、それほどまでに五里霧中だったのだと思います。
 だけど、三年、五年、十年としぶとく農園を続けていくなかで、良いこともたくさんありました。
 その最たるものは、最愛のパートナーと、彼女の息子との出会いです。ふたりがいなかったら、今の僕も、農園も、絶対になかったと言い切れます。
 加えて、全国各地のお客さんから温かい声援をいただく機会も、ここ数年でみるみる増えてきました。
 良いことは、それ以外にもたくさんありました。特に野生動物たちとの予期せぬ邂逅は、常に自然と向き合っている生産者でなければ、なかなか得られない体験でしょう。
 ブルーベリーの株のなかにいたカッコウの雛と遭遇した時の感動は、今でも昨日のことのように思い出せます。
 カシスの葉先にとまった、世にも珍しいコバルトブルーのアマガエルを見つけた時は、その途方もない美しさに息を呑みっぱなしでした。
 圃場の草取りをしていた際、草葉の影でじっとしているウサギの赤ちゃんを発見した時は、輝く黒い瞳をいつまでも見つめていたものです。
 辛いこと、楽しいこと、悔しいこと、嬉しいこと。様々な経験を得るなかで、いつしか僕たちが天塩にかけて育て上げた農園は、なにものにも代えがたい、我が子同然の存在になっていきました。

 あれは忘れもしない、一昨年の八月初旬のこと。収穫期真っ只中の、暑い真夏日でした。
 収穫物の選別やパック詰めに追われて、帰宅する時間すら取れないほどの忙しさに、やむなく僕は、キャンプハンモックにくるまって野外で夜を明かすことに決めたのでした。
 虫の音と夜風の息遣いを全身で浴びながら、気絶するように寝入り、やがて日が昇り始めた頃、そばで小さな声が。
「ねえねえ、僕の絵を描いて」
「え?」
「絵を描いて」
 僕はびっくり仰天して、ハンモックから飛び起きました。何度も目をこすって辺りを見回すと、ブカブカの茶色いズボンをはいて、肌触りの良さそうな緑色のシャツを着た男の子が、すぐそばのブルーベリーの株の前で、あぐらをかいて座っているではありませんか。
 大の大人にワシャワシャとやられた頭をそのまま放置したかのようなヘアスタイルと、クリッとした黒い瞳が印象的です。
 僕は、その子が人間以外の「何か」であることを、どういうわけか直感的に察知しました。かつて邂逅したカッコウの雛や、コバルトブルーのアマガエルや、ウサギの赤ちゃんと同様の、野生動物にしか備わっていない凛としたオーラを、溢れんばかりに放っていたからです。俗世の垢にまみれた人間には、とてもじゃないけど醸し出せるような代物ではありません。僕にはそれが分かったのです。
「ねえってば、描いてよ!」
 僕はやっと口をきけるようになると、言いました。
「ていうか、あんた、そこで何してるの?」
 すると男の子は、とても大事なことのように、たいそうゆっくり言いました。
「ね……僕の絵を……描いて」
 不思議なことも、あんまり不思議すぎると、とてもイヤとはいえないものです。起きぬけの状態でいきなり絵を描いてと注文されても、面倒くさいことこの上ないし、困惑するしで、全く気乗りしなかったのですが、言われるがままに、僕は作業小屋のなかから鉛筆とノートを取ってきました。
 が、その時僕は、地理と歴史と算数と文法だけしか取り組んでこなかったことを思い出したのです。そこでその子に、やっぱり絵を描くなんて無理だ、僕は絵心が皆無だから、と言いました。
 すると、彼はこう答えました。
「そんなこと、かまやしないよ。僕の絵を描いて」
(ったく、面倒くさいな)
 僕は小さく舌打ちしてから頭を掻くと、おっかなびっくりとした手つきで、男の子の顔の輪郭を描き始めました。
「違う、違う! これは本当の僕じゃない。君と話すために、人間の姿を借りただけだよ。本当の僕はこっち。そんなことくらい、分かりそうなものだけどなぁ」
 男の子は、背後のブルーベリーの株を親指で指し示しました。
(こいつ、大人をおちょくってやがるな)
 ムッとした僕は、先の考えを、すなわち、男の子が人外の存在だという直感的推察を、即座に撤回したのでした。こいつはきっと、夏休みで暇を持て余して、朝っぱらから人様の農園に忍び込んできた近所のガキンチョに違いない、と。
「なるほど、なるほど、君は木なんだな。分かった、理解したよ。それじゃ、ひとつだけ質問させてくれ。君たち木は、なんのために生きているんだい? それをきちんと理解してからじゃないと、ちゃんとした絵は描けないものでね」
 男の子は、キョトンとした表情で目をぱちくりさせると、さも当たり前といった風に、こう答えたのでした。
「決まってるじゃないか、踊るためだよ。そんなの見れば分かるだろ? 君は違うの?」
 カマをかけて、揚げ足のひとつでも取ってやろうと企んでいた僕は、その返答を受けて、不意打ちを食らったように驚いてしまいました。おいそれとは受け入れられない話でしたが、確かにこの子は木の精霊なのかもしれない、とひとまず心を入れ替え、素直に信じてみようと思ったのです。
「分かった、描くよ。ただし一枚だけだぞ」
 僕は立ち上がって、男の子の背後にあるブルーベリーの株を丁寧に観察しました。
(この主軸枝は、数年前は小さな新芽だった。よくぞここまで成長したものだ。この辺の込み入っている部分は、枝という枝が太陽光に向かって一心に伸びた表れだろう。それにしても、大した生命力だなぁ)
 ブルーベリーの株の奔放なダンスを想像しながら、まずはノートの真ん中に横線を一本引いて、その上下に、グネグネ、ウネウネとした枝や根を、勢いよく描き込んでいきます。
 ほどなくして出来上がった絵は、自分でもびっくりするほどに上出来でした。湾曲した線のひとつひとつが、ダンスの痕跡を伸び伸びと表現できているように思えました。
 一抹の恥ずかしさを覚えながらも、ノートから切り離した絵を男の子に手渡します。筆跡のひとつひとつを食い入るように見つめる、黒真珠のような瞳。それから彼は、キラキラとした声色でこう言ったのです。
「うん、こんな絵を描いてほしくてたまらなかったんだ。君、人間にしてはなかなかちゃんとしたヤツだね。良いセンスしてるよ」

 生まれてはじめて絵を褒められた僕は、あの日を堺にすっかりのぼせ上がってしまって、今でも、気が向いた時に木の絵を描いています。
 ちなみに彼とは、以来一度も会っていません。だけど、構わないのです。なぜって、僕は木々の気持ちが分かるようになったのだから。木々と会話できるようになったのだから。
 自然界と密に交われるようになったこの得難い感覚、事細かに説明できたら大変素晴らしいのですが、生憎今の僕は、それに足る表現力を持ち合わせていません。
 だけど、この充足感は、(もしあなたがそう望むなら)お裾分けしてあげたいくらいです。
 いつかあなたが、深い山や森のなかを歩くことがあったら、あるいは果樹園を訪れる機会があったら、周囲の景色や現象を、じっと観察してみてください。そして、自分と気の合いそうな木を見つけて、その幹や枝葉に、そっと触れてみてください。
 その時、木の精霊であるおかしな子供がそばへ来て、へんてこなお願いごとをしてきても、どうか、世の大人たちがそうするように、頭ごなしに否定したり、適当にあしらったりせず、真心を胸に接してあげてください。
 そうしたら、真摯に向き合ってくれる人間と出会ったその木は、どんなに喜ぶか知れません。

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