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【エッセイ】 カシスジャムと約束

 北海道函館市の隣町、自然豊かな北斗市に僕たちの小さな農園はある。ほとんど耕作放棄地と化していた両親のブルーベリー園を僕が引き継いだのは、今から約十年前のことだ。
 就農してすぐさま、なけなしの貯金をはたいてチェーンソーを購入した。すっかり落ち込んでしまった収穫量を回復させるため、古くなった株を真っ平らに剪定したのだ。
 園全体を一気に立て直す計画だったが、樹勢が完全に復活するまでには三年以上もかかる。そこで僕は、農園の新たな栽培品目を見つけるために、北海道各地の農家を尋ねる旅に出たのだった。

 ハスカップ・カシス栽培のパイオニアとして知られるその人に出会ったのは、十勝地方を通りがかった時のことだった。焼け付くような真夏日だった。
 広大な田園風景のど真ん中に浮かび上がったのは、でかでかとした果樹園のシルエット。その威容を目の当たりにした僕は、気がつくと引き込まれるようにしてハンドルを切っていた。
「すいませーん」
 農園の入り口付近に車を停め、敷地内へ入っていく。しかし、返事はない。
 仕方なしに、広大な圃場内へと足を踏み入れる。真ん中あたりまで来た時、びっくりすほどの近距離で、白いキャップがひょいっと持ち上がった。
 草取りの手を止め、ハスカップの枝葉をかき分けて目の前にやってきたのは、険しい表情で目を細めた、頑強そうな老人だった。
「こんにちは、お客さんかな? いや〜、今日のお天道さんは眩しいねぇ」
 ピンとした背筋と、日焼けしたツヤツヤの肌。額に手をかざしつつ、彼は人懐っこい笑みを輝かせてそう言った。どうやら、僕の背後で照り輝く日光に目を細めていたらしい。ホッと胸を撫で下ろす。

 株元の草取りを手伝わせてもらいながら、彼に様々な質問をした。
 その時点ですでに七十七歳だった彼は、自ら植え付けた五千株もの低木果樹を、農薬や除草剤は一切使用せず、自然の力だけで栽培しているとのことだった。
 それだけでも大層驚かされたのだが、さらに驚愕したのは、彼が生涯で一度も医者にかかったことがなく、任意保険にも加入したことがないという話だった。
 「いよいよ体が動かなくなったら、潔くここの土の上で最期を迎えようと思ってんだ」

 農園の壮大な景色を眺めながら、彼が作っているというカシスジャムを試食させてもらう。その奥深い芳香に落雷のような衝撃を受けた僕は、半ば放心状態のまま、こう告げていた。
「僕もカシスジャムを作ってみたいです。ウチの農園の隅っこに、じいちゃんが昔植えた古い品種の株がひとつだけ植わっているのを、今思い出したんです。あの株、挿し木で増やしてみようと思います」
 真っ白な犬歯でタバコをくわえながら、目元の笑い皺をしわくちゃにして頷く彼。
 商品が完成したら必ず見せに来ることを約束して、僕は帰路に着いたのだった。
 
 挿し木で増やした二百株ほどの苗を大切に育み、たわわな実を収穫できるようになるまでに、四年余りもの年月を要した。その間、僕は現在のパートナーと彼女の息子に出会い、農園を共に営むようになった。
 ようやくジャムを出荷する目処が立ったある日、完成の報告をするため、いつものように彼の自宅に電話をかけた。すると珍しいことに、電話口に出たのは奥さんの方だった。
「主人はつい先週急死したんです。脳卒中でした」
 全く予想だにしていなかった訃報を受けて、一瞬で視界が真っ白になった。あと少しだけ完成するのが早ければ、約束を守れたのに。
「畑で草取りをしている最中に、ぽっくりと逝ったんですよ。幸せな最期でした」 
 そう教えられた時、胸を刺し貫く悲しみが、スーッと和らいでいくような不思議な感覚を覚えたのだった。
 ジャムのラベルシールを貼る時、今でも決まって彼の笑い顔を思い出す。彼が遺してくれたカシス栽培への熱い思いと、その誇り高い生き様は、この先もずっと、僕の心のなかで生き続けるだろう。

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