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怒りについて

氣は 長く
心は 丸く
腹 立てず
人は 大きく
己 小さく

(達磨大師)

達磨大師

高校二年〜三年のときの担任・O先生は牧師で、聖書の授業を担当されていた。
常に穏やかで、ニコニコしながら話される、優しい先生だった。

三年生のときだったと思う。
私たちが何をしでかしたからだったかは忘れたが、たった一度だけ、O先生がホームルームの時間に激怒されたことがあった。
今でも、その場面は忘れられない。

「えへへ」と、最初、O先生は照れているように見えた。ニコニコ顔はいつもと同じだった。ところが次第に、その柔和な照れ笑いと、それとは真逆の鬼の形相とが繰り返し入れ替わり、遂に、鬼の形相がまさって猛火大噴火の強烈な激怒となって、私たちに"神の雷〜いかづち"のごとき鉄槌を下したのだ。

普段の優しさと穏やかさから、あまりにも掛け離れた、O先生の強い怒りを目の当たりにした私たち。女子の中には泣き出す子もいた。
真の怒りとは、こういうものかと感じ、クラス全員の背筋が伸びた。

法輪寺(達磨寺)・京都市上京区

仏法では、怒りもまた煩悩のひとつと説かれている。しょっちゅう怒っていてはいけないのだ。
私はこれまで、私自身の安直な怒りによって、さまざまな人間関係を壊してきた。

O先生の"素の性格"がどんなだったかは知るよしもない。生来、常に穏やかで安定した精神を保って生きられる人間などあるまい。O先生には、きっと、ひと知れぬ何かを経た、ひと知れぬ努力があって、あの人柄に到達なさったに違いない。

性格を変えることは難しいだろうと思う。でも、怒りという煩悩を制御する努力を放棄してはならないと、今さらながら私は感じている。

O先生の、あのときの激怒の場面を、四十年以上が過ぎた今なお、私が想起するのは、真の怒りと安直な怒り……怒りという煩悩を如何に制御すべきか、まさしく真我より届くメッセージにほかならないからなのだろう。

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