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【短編 G Story】 ジプシー・イン

 私は精魂尽き果てて再びここに辿り着いた。
 カトマンズ・トリブヴァン国際空港。あの頃にはなかった大阪からの直行便を降りた時、私にはまだちっとも懐かしく思えなかった。全く様子が違っていたから。すっかり立派な大空港に変貌している。
「ああ。でも、この空気……」
 独特な、あの乾いたような香りはまだ健在だった。私が、この土地に帰ってきたという実感は、ネパール王国の威信が固まってできたような微笑ましい大空港の正面玄関から外に出て、この小さな大都市の中心部へと向かおうとする途中で漸く湧いた。ひったくるように私のスーツケースを肩に担ぎ上げ、あんたを待っていたんだよ、と言わんばかりの真っ白な歯を見せる日焼けした顔。連れて行かれた先には、強引に何度も私の行き先を尋ねるドライバーの青年。そして私は、とても人を乗せて走って良いとは思えないような廃車同然のタクシーの後部座席に流されるままに押し込まれる。なぜだか助手席に乗り込むのは、さっき私のスーツケースを担いだ男、彼は客引き兼荷物運び要員なのだ。何もかもが二十年前とまるで変わっていなかった。こうして私は初めて懐かしくなれた。日差しはずいぶん傾いていた。この土地を離れる時、何度も振り返って記憶に焼き付けた景色が、今また目の前に開けている。きっと私は半泣き顔になっていたのだろう。


「Japani! Where hotel? Blue Sapphire Hotel? Ok? Ha?」
 まだ一言も発していなかった私の顔を、二人のネパール青年たちが不思議そうに覗き込んでいる。
「No, no. Gypsy Inn…」
 そんなホテル、もうないかも知れない。
 日本の景気もそこそこ良かった当時。私はチベッタン・カーペットをここから輸出する商売をしていた。かれこれ三年近くカトマンズに滞在していたあいだじゅう、私はずっとそのホテルに住んでいた。旅行ガイドはおろか地図にも載っていないような名もないホテル。そこを切り盛りしていたのは、ちょうど西田敏行と黒柳徹子を連れ添わせた感じのチベット人夫婦で、私は“お父さん、お母さん”と日本語で呼んで実の親子のように親しんだ。西田が完全に黒柳の尻に敷かれている風な日常の様子が絵としてもコントとしても愉快で堪らなかった。毎日が楽しかった。
(あの二人。元気で生きているかな)
 どうにか綱渡りをしながら続いていたカーペットの事業は、東京で売りさばいてくれていた友人が突然倒れ、いきなり立ち行かなくなった。同年代だった彼は私の帰国を待たずに、まだ三十代の若さで急死した。苦労を掛けていたのかも知れない。私はネパールという遠隔の土地で、何も気付かずにのうのうと暮らしていたのだ、と、自分を責めた。
 それ以降、私はカーペットの仕事で積み残した借金を返すためだと、よせばいいのに更に別の事業に手を出して次々と失敗を繰り返した。詐欺まがいの中国産痩身薬販売で逮捕された時には、ついでに財産を何もかも売り払って完全に自己破産した。文字通りのゼロから再出発した目標は、再びここカトマンズに戻って、大好きなこの土地で死ぬことだった。もう私には生きている価値がないと思った。


「Japani! Gypsy Inn, here!」
 綺麗な夕焼け空をバックに、思い出深いそのホテルの建物がシルエットになって私の目の前にあった。私はドライバーともう一人にそれぞれ大層なチップをはずんで、料金も言い値で払った。私が、あの頃と比べてまるっきり狭くなったホテルの周辺をゆっくり展望していると、彼らはネパール人の誰よりも機敏な動作で私の荷物をレセプションまで運び込んで行った。
 この土地を私の死に場所に選んだのには理由がある。
 私がこのジプシー・インで暮らしていた当時、初めてこの国を訪れる日本人パッカーたちが、しばしば私を訪ねてやってきた。ここで長期に亘って滞在している日本人がいると聞き、近くの安宿をねじろにしているような旅人たちが諸々相談をしにくるのだ。たいていは休みを利用して放浪気分を味わっている気楽な学生たちで、どこにどんなレストランがあっていくらでランチが食えるか等は私より詳細に調べ尽くしているのだが、決して旅行ガイドには載っていない、ハッシッシの確実廉価な入手法を指南して欲しいという連中が大半だった。私はわざと、
「それなら、ほらここにこんなにあるよ」
 手持ちの、日本だったら末端価格が200万円ぐらいになるような上物のハッシッシの延べ板を、その場で即座に見せてびっくりさせてやったものだ。しかし、私の部屋で少し賞味させてやるだけで決して売るようなことはしなかった。フリークストリート辺りで売人を見付けるコツだけを教え、あとは自分で実地体験させていた。その方が勉強になった筈だ。
 そんな若者たちの中に紛れるように、あの子はいた。忠博くんだ。
 真面目な男だった。学生ではなかった。そんなトリップ目当てのにわかパッカーたちとは違って、忠博くんは写真を撮る修行をしながら旅を続けているのだと言っていた。歳に似合わない重厚なライカを自慢げに見せてくれた。可能な限りワーキングビザを取得して、とにかく働きながら世界中を周りたいと熱っぽく語っていたから、私はとても好感を持ったのだ。
「カトマンズには、いつまでいるの?」
「一ヶ月を予定しています。ここは休憩所みたいな感じですから、一旦インドに入って、また戻ってくるかも知れません」
 そのひと月のあいだ、私は何度も尋ねてくる忠博くんをいつも快く迎えていたのだ。一緒にハッシッシを吸って何時間もいろんな話をした。人生のこと。これからの夢。忠博くんも私と同様バロックが好きで、BGMはいつもバッハかヘンデルだった。友達のこと。そして家族だった人たちのこと……。父親から“このホモ野郎”と罵られて実家を追い出された私が、こんな風にヒッピー上がりのままこの土地に居付いてしまった経緯を語った時、忠博くんは羨ましそうな眼差しで私をじっと見詰めていた。そして彼自身もまた同様に、どんなに頑張っても日本の社会には決して馴染めない不適応児だから、このまま旅を続けて、いつか人知れず野垂れ死にたいと言った。
 とうとう忠博くんを愛してしまった私は、堪え切れずに本当の気持ちを吐き出した。
「ここで、俺と暮らさないか?」
 忠博くんは何も答えずに私の身体に全身を預けた。
「……。今だけでイイから、僕を抱いて下さい……」
 それから何回か、私は忠博くんと結ばれた。私の人生で一番幸せな一ヶ月間だった。
 そんな思い出に包まれながら、私はこの土地で死にたいと思ったのだ。


「Hey! Japani! Come! Why you don’t come?」
 さっきのドライバーの大声で、私は我に返った。
「Sorry, sorry…」
 前庭の、見覚えのあるレンガの石畳を一つ一つ追いながら、私はゆっくりとエントランスに近付いた。中に入ると、まるで変わっていない小さな小さなレセプションルーム。唯一違ったのは、昔ならギュンギュンと音を唸らせながら回転している筈の天井ファンが鳴りを潜めていて、今では日立製のエアコンが静かに冷気を送っていることぐらいだった。他は全て二十年前と同じだ。シバやビシュヌのサイケデリックな聖画が貼られカレンダーが吊り下がる位置、そして使い古した香炉、ボロボロになったソファーのありさま、どれもこれも私の記憶通りだった。ひとりでに涙が頬を伝った。
 しばらくすると、
「Welcome! Good evening, sir. Hello, hello」
 頭髪が真っ白になった黒柳徹子がのっそりと現れた。真っ赤に潤んでいたであろう目で私が見つめていると、彼女も直ぐに思い出してくれた。
「Oh! You, Takao! Takao! So long…so long…」
「……お母さん……」
 その後は、二人とも言葉にならなかった。小さくなった彼女の身体を私は優しく抱きしめた。
 そうだった。ここには私の、母、がいたのだ。
 聞くと、西田似の亭主は二年ほど前に他界したのだという。独りではとてもこの仕事は無理だし、もう歳も歳だから、と、その時は一度廃業を決めたのだそうだ。
 私が、それならなぜ今こうして、と訊いてみると、そこで彼女はハッと思い出したように目をパッチリ開いた。
「Oh! You remember Tada?」
「Yes! Of course!」
 忘れるわけがなかった。
 私は、もう生きる精魂が尽き果てている。忠博くんとの思い出に包まれながら、この土地で死のうと思っているのだ。
「He is here now!」
「What just you said?」
 驚いた次の瞬間、
「た、孝雄さん、ですよね? そうだ! 孝雄さんじゃないですか!」
 私はもう一度自分の耳を疑った。突然、あの忘れられない声が聴こえたからだ。
 たった今、奥から出てきた男の声である。
「……。忠博、くん、かい?」
 男の手には、見たことのあるライカが握られていた。
 

 思えば……。
 忠博くんも私も、けっきょくそれぞれの放浪生活の末に、再びこのジプシー・インに舞い戻ってきたというわけである。彼の方が二年ばかり早かったけれど。
「僕、待っていたんです。ずっと。きっと孝雄さんが帰ってきてくれるって。だって、僕たちの、このお母さんがそう言うんだもの。自分の息子なんだから、きっと帰ってくるからって……。だから僕、お母さんと二人でこのホテルを守ってきたんです」
 忠博くんが一緒なら、まだ私も人生をやり直せる。
「……そうさ、そうとも。帰ってきたんだよ。遅くなってごめんね……」
 ここには、私の本当の家族がいるのだから。


(了)

(2005 7/7)