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菜虫化蝶

啓蟄、という言葉の響きが好きだ。
春の湿った土がもぞもぞと下から押し上げられる気配がする。
最近知ったのだけれど、啓蟄をさらに三つに分けて、春分直前の今の時期は「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」というらしい。

別に蝶になって欲しいとは思わないのだけれど、最近のイチの様子は週を追うごとに良くなっている。
1月は激しい行き渋り、2月は行きたい時だけ行く、3月は気が向いて行ける日が増え、朝から昼まで楽しそうに登園している。普段の彼からは想像もつかなかった呪詛の言葉は完全に鳴りを顰めているし、多少入室を躊躇う様子はあっても、引き剥がされることなく気持ちよく登園できている。
これがいわゆる「充電」ができつつある、ということなのかなと思う。

子どもが保育園や学校を行き渋ったときどうすべきか。小児発達関連の書籍やYoutube では、誰もが「休ませて様子を見ましょう」と言う。登校拒否は子どもにとって最終手段であり、問題の始まりではない。そして、休養させ充電させることがメンタルヘルスの健康につながっていく、というのだ。
それを承知の上でも、ずっと休ませていると親のメンタルはとてもキツい。育休中かつ年少の不登園を経験した身であっても、保育園を退園する方がいいんじゃないかとか、知恵がついて良いように使われているんじゃないかとか、不安や怒りが止まることを知らず、さらには産後のせいかメンタルがジェットコースター状態でさめざめと泣いたり失踪したくなったりしていた。5歳児に通帳を持たせてこれを持って出て行けと言い放ったりもした。本当に酷い母親だと思うし、つくづく親に向いてないなと思う。
けれども、今のイチの様子を見ていると、やっぱり休ませたことは正解だったんだと思う。もしも休ませず無理矢理に登園を強いていたら、今もまだ呪詛を吐き続けていただろうし、もしかすると想像できないできないようなもっと酷い状態になっていたかもと思う。

子どもの発達や不登校に関して溢れかえる多くの発信の中で、私は精神科医の本田秀夫先生のYoutube と、各種団体とのコラボ動画、学会や病院での講演の動画を見たり、本を読んだりしている。
本田先生の発達障害のある子どもへの対応に関する説明では、しばしば「こういう対応は虐待ですよね」という発言がある。これにはいつもドキッとさせられる。「私は虐待する親なのか」と非難されたように気持ちがざわつく一方で、「そうか、イチを無理に保育園に行かせることは虐待なのか。じゃあ休ませよう。」と思い切れる、納得できる発言でもある。
「グレーではなく白に近い黒」という言葉も、中々に受け入れが難しい側面はあるものの、事実であるとおもう。軽度だろうが重度だろうが、怪我は怪我で風邪は風邪であることに変わりはないのと同じように。
つまり、イチはASDである。わかりにくいけれども確かにこだわりを持った人で、優れたところもたくさんある。それが故に周囲は「できるはず」と思ってしまうし、「できるはずなのに」と勝手に期待して勝手に落胆してしまう。
所詮幼児なので、気持ちや考えを対等に言語化することなんてできようはずもないし、逃走や拒否にも限界がある。本人は本当にできなかったり苦手だったりすることを、周囲は「どうしてできないの」「やりなさい」というのだとしたら、確かにそれは、虐待に他ならない。

ちなみに、この冬保育園を休ませようと決断したきっかけになった動画はこちら。もし似た境遇の方がおられたら、ぜひお勧めしたい。

この3ヶ月は前述の通り本当にキツかった。
保育園に行くたびに私が泣いていたし、家でどう過ごすかについても、賢くなったイチを相手にどうルール作りをするかと随分悩んだ。自分だけが一人相撲に苦しんでいる気がして家族を解散するしかないとも思ったし、もう自分がログアウトしたらいいのでは?と壁に頭を打ちつけた時もあった。終わりの見えないトンネル、ゴールのない迷路。救いのなさに人生詰んでるとしか思えなかった日々。
しかしそれも喉元過ぎれば熱さを忘れるし、こういう期間があったからこそ、恐らく次の不登園あるいは不登校についての心づもりや、そうなった時の対応に余裕が持てると思う。今回の行き渋り〜お休みがあったから、夫の不勉強を徹底的に批判できて、イチへの理解を促すきっかけになったのも事実だ。

モンシロチョウが飛び始めると、その次はスズメが巣作りを始めるらしい(雀始巣)。
自然の摂理で季節がめぐるように、放っておいても草木が芽吹くように、イチもまた大きくなって行く。そこに必要以上に介入したり操作しようとすることは、結局邪魔でしかない。彼が快適な巣を作っていけるように、辛抱強く見守っていきたいとおもう。

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