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去り際は清くありたい

気晴らしのドライブを、紅葉狩りを兼ねて行き、少し遠くまで足を伸ばした。

かつて零細企業とは呼べないほどの興隆を極め、300名を超える従業員を抱えていた工場跡地を、久し振りに見た。利益を上げ、何ら問題はなかったはずなのに、何ともあっけない幕切れだった。あくまでも経営側の失敗だろう。

持して之を盈たすは、其の已むるに如かず
(中略)
富貴にして驕れば、自らその咎を遺す。功遂げて身退くは天の道なり。 

【老子∶九章】

功なり名を上げれば身を退くべき、という老子の一節を思い出した。

その者の身に相応しい、身と心に玉の器を持っている。例え一時でも、程を超えて持ちすぎるは如何なものか。周りが見えなくなり、驕慢な態度が常態化してしまう。判断がただ一人に集中して、適切な決断ができなくなる。人を信じず失うを恐れ、執着が強くなる。あげく、全てを失った。

得たモノに執着するよりも、自身の器を大きくすべきだったのでは。器以上のものは溢れる。一人で守ろうとすると、時宜を見失う。己は人に優れたと思う心が慢心を生む。

失ってもまだ機会はあったのに、創業当時の意気が挫かれてしまった。早くから息子や幹部従業員の意見を聞き、慢心に気付くべきだったろう。大きいからこそ、判断の遅れで引き返せなくなった。


わずか十名足らずの、零細と言うよりも家内工業のような会社を廃業させてしまった、こんな自分が言えることではないが。


会社を閉鎖し、初めて自分を見つめられた。所詮、器でなかったことを、ずいぶんと長い時間を掛けて学んだと思う。一人になり、気付けば預貯金全てが消えていた。もっとも信頼すべき身近な者に裏切られた形になった。

一時期、義母に対しての憎しみと、妻への怒りで頭が一杯になった。それも過ぎて冷静になると、何も無いことは憂いも湧かない、執着に縛られない事を知った。

自分の能力の範囲を知れば、その中で満足すべきで事足りる。自分次第でどうにもならないものは、いくら求めても指の間からこぼれ落ちてしまう。

一つのモノに対しての、内と外との視点を変えれば、けっこう人生も面白い。

何が現実なのか、何を目指していたのか、自分の存在が最後に問われる。成功したのが現実か、名を上げることが目的か、零落れた姿が真実か。おちぶれることは、それほど哀れな惨めなことなのか。

そう、本当の現実と成功は何なのか。やっとこの歳になって「胡蝶の夢」の意味が、わずかだが解ってきたようだ。夢か現の間を彷徨うよりも、日々自分の思いのままに、今が自分の現実と捉えて生き、あとは静かに去りたいものだ。


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