表現者としての自分へ

今朝から頭痛が酷くて、一日中ぐったりしてた。
寝過ぎたり、逆に睡魔時間が変動したせいで、多分頭痛になってた。
薬飲んだら良くなって、珍しくウトウトしてる。
今日は、素直に眠れそうと思いつつ…。


先日、就職活動を終えた。
お世話になった人たちにも挨拶をして、自分の内定先のことをネットとかで調べる。
知名度とか、年収、離職率、入った人たちの声、そういう「他人の声」に耳を傾けてる自分に嫌気がするが、仕方ないと思いつつ、自分が選んだ道を正解にするしかないなと、思い直して、携帯を閉じる。

私が、就活終盤に行き着いた自分は「自身に価値を見出せず、自分が見えないアウトプットを評価されることによって、存在価値を見出している。だから、表役者よりも裏方を好み、前線で表現(=価値を生み出す)ことに抵抗がある」というもの。

今思うと、そういった意味では、やった仕事があまり結果として見えない商社は、自身に合ってたことは奇跡だったんだろうな。今思い直しても、商社という業界を志望したことは必然だったと思う。

もう少し視野を広げれば、間接的に価値を生み出す仕事ってあったんだろうな。でも、クリエイター職に劣等感があるから、限られてるか。

上記の歪んだ自己認知は、昔の記憶からきている。女としたの自分を否定されて、男として生きた自分・性的指向を否定された自分、どちらも素の自分を押し殺したから、ありのままの自分を直接表現することが怖い。だから、表現者としての自分は、憧れはあっても劣等感が酷い。

先日、大好きな高橋一生さん主演の岸辺露伴を見てきた。ジョジョの中でも、表現者としての価値観と役者としての価値観が合わさったこの作品を見て、私は素直に「羨ましい」。そう思った。私は表現者として、評価されなかった自分に恐怖している。一方で、その自分を求めているのに。

正直、内定先を自分の中で「納得させようとしている」自分がいると思う。まぁでも、ここから茨の道に歩もうとか思わないな。入社してから、自分の道を決めてもいいだろう。転職に否定的だったけど、転職する理由も納得し始めているから。

私は、内定先の会社で、どう自分の正解を見つけるんだろう。内定先の会社の人と話してみようかな。

そうやって、自分と向き合う。根底にある拭いきれない自分への劣等感と、自己表現者としての私と憧れ、そして今研究しているライフとワーク。我々は何のために職を得て、生きるのか、そうやって実存主義的に生きていく他ない。

眠たい思考の中での書き起こし…。そろそろ寝ないと、また頭が痛くなる


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