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明日死ぬかもしれない私の、「有限」を探す旅。

明日、自分が死んだらどうなるのだろう?」

そんなことを考えた経験はないだろうか。私は何度も何度も、その問いについて考えたことがある。事実として、人はいずれ死ぬ。どんなに生きていたって、どんなに素晴らしいことをしたって、寿命は平等に、私たちに分け与えられている。そんなことは誰だって知っているはずだ。しかしながら、「死」について実感を持って感じている人はどれくらいいるだろう。

以前の私は、「自分が死ぬ」ということを容易く想像出来ていた。周囲には私の死によって影響される人とされない人がいて、時間はただ刻々と流れていく。いつしか私は忘れられ、地球の塵となって飲み込まれていくんだ、そんな風に考えていた。だからこそ、自分の思う「最高に幸せな瞬間」に死にたかった。花火のように散っていって、葬式で皆が大笑いしてくれるような、そんな人生が良かった。しかしながら、それを思いつく時の私はただただ孤独で、1人で生きて1人で死んでいくような気持ちになっていた。

今の私は、こんな風に考える。

「明日、彼女が死んだらどうなるんだろう?」

そんなことを伝えたら「勝手に殺すな!」と笑われてしまいそうだが、大真面目に「彼女の死」について考えては枕を濡らす日が実際にあるのだ。

どんなに永遠を誓っても、どんなに長く一緒にいたとしても、時間は有限だ。いつか彼女の身体は衰え、骨密度は下がっていく。「歳を重ねた姿を見ること」への喜びの後ろには、「終わりへの絶望」が影のように張り付いている。「彼女」という存在そのものが、いつかは消えてしまう未来がくるのだ。それは私にも言えることで、命の保証がない限り「永遠の愛」なんて夢のような話である。寿命という期限がある中で、「永遠」とは何を指すものなんだろう。同じタイミングで死ぬことを望んでいたとしても、それは不可能に近い。いつかは必ず、どちらかが相手を失ってしまう時間が来る。

「死」というものは、経験者がいない分、抽象化されやすい側面がある。死んだら天国に行くとか地獄に行くとか、何回転生するとか、死は新しい人生の始まりとか、黄泉の国に行けるとか、皆が好き勝手に「死」を揶揄する。それでいいのだ。だって、「死」への思いは人それぞれだから。しかし、希望的観測を含んだ「死」ばかりを信じていると、「生」を実感しにくくなる。「生」と「死」が曖昧であることは、人生にとって「良いこと」ばかりではないのかもしれない。

私にとって「死」は「無」だ。心臓が止まれば、脳は最後の電気信号を発し、次第に全てが止まりはじめる。動きを失った血液は、重力の通りに下に溜っていく。筋肉は硬く硬直し始める。当然ながら、その時の私の意識は「無」だ。ブツっと抜かれてしまった機械みたいに、私の生涯はそこで終える。それは他の人の「死」に対しても同じだ。だから私は「死」が怖い。正しく「死」を怖がることが出来るようになった。当然、彼女の「死」だって物凄く怖い。

彼女の29歳は1年しかなくて、彼女の2020年3月7日は1日しかない。日々、身体が成長し衰えていく中で、彼女ですら把握できていないような貴重な瞬間を、私の眼は確実に捉えている。彼女の皮膚の柔らかさだって、揺蕩う髪の光だって、彼女よりも私の方が知っている。貴女が失いつつある貴重な一瞬一瞬を、私がしっかりと心に留めておきたい。それは相手が何度歳を重ねたって同じだ。だって今この瞬間の眼差しも、言葉も、表情も、一緒に見ている景色ですら有限で、二度と手に入らないものだから。

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