【知っておきたい日本の歴史(命)】ー万世一系と言われる天皇の血筋の危機!

【知っておきたい日本の歴史(命)】ー万世一系と言われる天皇の血筋の危機!
皆様 道鏡という僧により,万世一系と言われる天皇の血筋が途絶えてしまう危機があったのはご存知でしょうか?
738年、「聖武天皇(しょうむてんのう)」は娘の「阿倍内親王(あべのないしんのう)」に皇位を譲ることにし、阿倍内親王は日本史上初の女性皇太子となります。阿倍内親王21歳の頃の話です。
749年、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ・奈良の大仏)に塗るための金が東北地方で見つかった事をきっかけとして聖武天皇は皇太子である阿倍内親王に皇位を譲ることにし、阿倍内親王は「孝謙天皇(こうけんてんのう)」として即位します。
しかし天皇に即位したとは言え、当時は孝謙天皇の母親で皇太后でもある「藤原光明子(ふじわらこうみょうし)」と藤原4兄弟の長男「藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)」の息子、「藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)」(仲麻呂は後に名前を変えて『恵美押勝(えみのおしかつ)』と名乗ります)の2人が実権を握っており、孝謙天皇は形だけの天皇という地位に甘んじなければなりませんでした。
そんな中、父である聖武天皇が亡くなり(756年)、またその2年後には母親の光明子が病に倒れてしまいます。
孝謙天皇は母親の光明子の看病をするため天皇を引退することを決意、「天武天皇」の孫の「大炊王(おおいのおおきみ)」に皇位を譲り「淳仁天皇(じゅんにんてんのう)」として即位させます。(758年)
淳仁天皇の即位の裏には藤原仲麻呂(恵美押勝)が絡んでいたことは言うまでもありません。しかし760年、孝謙上皇(天皇を引退すると『上皇(じょうこう)』と呼ばれる)の看病の甲斐も無く光明子は亡くなってしまい、その看病疲れからか孝謙上皇自身も倒れてしまいます。
そして倒れた孝謙上皇を看病するため一人の僧が現れます。それが「道鏡(どうきょう)」です。
密教(お祈りにより仏の呪力を用いる仏教)を学んだ道鏡は呪法を用いて孝謙上皇の病気を治し、これによって孝謙上皇の厚い信頼を得ることになります。(761年)
この頃から権力者であった藤原仲麻呂を疎ましく思うようになり、孝謙上皇vs淳仁天皇&藤原仲麻呂の対立が表面化し、孝謙上皇の寵愛を受け、次第に力を増してくる道鏡に対して藤原仲麻呂(恵美押勝)は衰退の一途を辿り始めます。
そんな中、危機感を覚えた藤原仲麻呂は孝謙上皇に対して「道鏡が『物部守屋(もののべもりや)』の地位と名前を継ごうと作戦を練っている。」と告げ、道鏡を遠ざけるように進言します。
ちなみにこの道鏡は、実は物部守屋の末裔だったということです。また天智天皇の「ひ孫」って説もありますけど、この説は信憑性が薄いそうです。
しかしその6日後、藤原仲麻呂(恵美押勝)の朝廷に対する謀反(むほん・反逆)が明るみとなってしまいます。そこで孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の「駅鈴(えきれい・役人が出張の時など使う鈴)」と「内印(ないいん・公式な文書であることを示すハンコ)」を回収しようとします。つまり、藤原仲麻呂(恵美押勝)は役人をクビになります。
対する藤原仲麻呂(恵美押勝)は自分の息子達に命じて駅鈴・内印を奪取しようと計画します。これを知った孝謙上皇は直ちに兵隊を派遣し藤原仲麻呂の息子を射殺、同時に藤原仲麻呂(恵美押勝)とその子孫達の姓と官位を剥奪します。
結局、藤原仲麻呂(恵美押勝)は琵琶湖湖畔で捕えられてその場で殺されてしまいます。それがいわゆる(『藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱』764年)です
戦いに勝利した孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)と共に謀反を企てたとして淳仁天皇を廃位させ、淡路島に島流しにして幽閉します。(764年)
淳仁天皇(淡路廃帝)は翌年脱出を試みますが捕らえられ殺されてしまいます。
敵対する邪魔者がいなくなった孝謙上皇は重祚(ちょうそ・もう一度天皇になること)し、「称徳天皇(しょうとくてんのう)」として即位します。(764年)
◎ちなみに歴代天皇で「重祚」したのは中大兄皇子の母親である「皇極天皇(斉明天皇)」と今回の「孝謙天皇(称徳天皇)」の2名だけで、どちらも女帝です。
称徳天皇は翌年、寵愛の深い道鏡を「太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)」という律令制の最高位である「太政大臣」と同じ権力を持つ「禅師」と言う意味の位に任じます。(765年)
つまり道鏡は人臣の最高位となったわけです。
そして更に翌年の766年、称徳天皇は「法王(ほうおう)」という位を新設してこれを道鏡に授けます。この法王という位の内容については不明ですが、あと一歩でと言うよりもうほとんど「天皇」という程の位だと言われています。
称徳天皇が何故こんなことをしたかについては諸説ありまして、
1.独身であった称徳天皇は子供が居なかったため次期天皇の座を道鏡に譲りたかった。
2.当時最高の権力を誇っていた藤原氏の専横を道鏡を使って阻止したかった。
3.称徳天皇が道鏡に惚れていて、しかも2人は男女の関係にあった。
4.道鏡が天皇の座を狙い、称徳天皇に取り入った。
などの説が挙げられていますが真実は謎のままです。いずれにせよ称徳天皇が道鏡のことをかなり信頼していたことは確かです。
こんな中、とてつもない噂が流れます。現在の大分県宇佐市にある「宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)」と言う神社の神様が「道鏡を天皇にすれば日本は安泰になるであろう。」とのお告げを出したと言うのです。(769年)
宇佐八幡宮は全国にある八幡宮の総本宮でそこに祀られている八幡神は天皇の祖先である「応神天皇(おうじんてんのう)」と同一視されていますので、ご先祖様である八幡神が「道鏡を天皇にせよ。」と言うのであればたとえ道鏡が皇族でなくても天皇にしても良いのではという意見が出ます。
しかし道鏡を天皇にすれば万世一系と言われる天皇の血筋が絶えてしまうことになるので簡単に決めてしまうことは出来ません。
※ちなみに当時、宇佐八幡宮を管理していた役所(大宰府)の長官は道鏡の弟でした。
  
そこで真相を確かめるため、称徳天皇は宇佐八幡宮に「和気清麻呂(わけのきよまろ)」という人物を派遣します。
和気清麻呂は最初、自分の保身のため「道鏡に有利な神託を持って帰ればいいや」ってな軽い気持ちで宇佐八幡宮に来たといいます。
そして神官に事の次第を告げ、神託を待っている和気清麻呂の前に高さ9mの満月のような色をした神様が現れ、「「わが国は開闢(かいびゃく)このかた君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだ、これあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は、必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除(そうじょ)をすべし。」と告げたそうです。
 
目の前に神様が現れてビックリ仰天した和気清麻呂は自分の命に換えてもこの神託を天皇にお届けしなければと固く決意し、都に戻り称徳天皇に八幡神のお告げを伝えます。
神託を聞き、噂がウソだと分かった称徳天皇は激怒、単に神託を聞きに行っただけの和気清麻呂を名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変えさせ、また和気清麻呂の姉「和気広虫(わけのひろむし)」も「別部狭虫(わけべのさむし)」と変えさせて島流しにします。(『宇佐八幡宮神託事件』・769年)
  しかしこれによって万世一系と言われる天皇家の血筋が絶えてしまうかもしれない大事件は回避できたということです。
しかし、いかに称徳天皇であっても神託(神のお告げ)は神託。どうあがいたって神託を覆すことなど出来るわけもありません。あまりにショックだったせいか称徳天皇は翌年の770年に病死します。
その後、天皇の位は藤原北家の「藤原永手(ふじわらのながて・房前の次男)」の後押しで天智天皇の孫「白壁王(しらかべのおう)」が選ばれ、「光仁天皇(こうにんてんのう)」として即位します。(770年)
もちろん新天皇の即位で道鏡は即座に左遷され(772年没)、島流しにあった和気清麻呂・広虫姉弟は再び都に呼び戻され重用されました。
そして時代は平安京へと移って行きます。ー授業ではチョット言えない歴史の話よりー
いかがだったでしょうか?
もし道鏡が天皇の即位についていたら日本の歴史は大きく変わっていたのではないでしょうか?
いずれにしても天皇も人間 異心(ことごころ=我欲)でご自身を見失うこともあります。いかに御心を保つことが大事か改めて思います。
でも和気清麻呂は自分の命に換えてもこの万世一系と言われる天皇の血筋を守ったのだから誇れる偉人です。

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