妄想:科挙文化が狭める若者の可能性

東洋では、中国隋の時代から始まったとされる「科挙」の影響が現在も続いていると妄想しています。

所謂受験戦争。欧米では、試験結果はその他の判定結果よりあまり重きを置かないのだとか。ですが、東洋では人生をかけて受験に合格を目指します。

科挙(Wikipedia参照):「(試験)科目による選挙」を意味する。「科目」とは「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。選挙とは、伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。科挙は今日の世界で標準試験(英語版)の起源であり、19世紀から欧米は西洋の学問にこのメリット・システムを取り入れた。

受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって受験を断念したり、過酷な勉強生活と試験の重圧に耐えられず精神障害や過労死に追い込まれたり、失意のあまり自殺したという鍾馗の逸話など悲話も多い。科挙は皇帝が直々に行う重要な国事だったため、その公正をゆるがすカンニングに対する罰則はきわめて重く、動機や手口次第では死刑に処される場合もあった。それでも科挙に合格できれば官僚としての地位と名声と富が約束される。

試験偏重主義による弊害は、現実の社会問題を俗事として賎しめ、「ただ読書のみが崇く、それ以外はすべて卑しい」という風潮が、近代まで続いたという。

制科:普通の科挙では見つけられない大物を官僚に採用するため、天子の詔で不定期に実施された試験である。科挙出身の官僚は制科出身の官僚と派閥争いを行ったが、人数が圧倒的に多い科挙出身の官僚が優位に立った。

博学鴻詞科:優れた学者や文人など在野の才人を推挙するために臨時で設けられた制度。

つまり、試験制度だけではうまく回らず、それ以外の選択をいくつか用意していたが、現状維持の主張にかき消されていったということ。

一度権力を握れば手放せなくなります。現状を守りたくなる。外に "正" があったり "清" があったとしても、"濁" や "沌" にする。それが権力と言えるのでしょう。

科挙の行く末には、"混濁" があるのか。

若い人たちの "自由な選択肢" が狭まれば、"濁" になる。一所懸命に科挙に人生をかけたとしても、"沌" になる。若い人たちを認める "制科" や "博学鴻詞科" が重要視される世の中にならなければ、"乱" となる。

東洋のリスクとは、実は科挙文化なのではと、妄想した次第。


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