真実の証明:これが必要な時代

デジタル化された "デジタルうそ" が本人の知らないところで "デジタル仮真実" として流通する。なにをどう信じるか。そのために、"デジタル真実の証明" に頼らざるをえない。

資本主義の根本は "信じること" にある。

競争は有意義なモノコトを残す原動力だが、生き残りをかけた泥仕合も作り出す。その中で、競争相手に "嘘の真実" を張り付け、信じ込ませる手法も頻繁に行われることだろう。

"嘘の真実" はだれが張り付けたか。それを追う機関は無いかぜい弱だ。誰であるのか判明を待つ時間も惜しい。だから、うやむやになりやすい。嘘を嘘と証明するのは張り付けられたほうが行うことになる。

資本主義の根本が揺らいでいる。

信じたヒトモノコトにかかわろうとして裏切られる。疑心暗鬼で経済が回らなくなる。生産も消費も滞り、生活が成り立たなくなる。

自然主義のなかでは、それも自然として受け止められる。だが、なにもカイゼンしないままでよいのか。幸福を求めて活動する社会であるなら、真実の証明は絶対に必要なはずだ。

何が起こりだれが動かしどんな損益が発生したのか。それが真実であることの証明。信じるに値する情報。

真実を証明するシステムの開発に注力する国が世界標準を作ることになる。信用証明が市場の根幹となるからだ。

だが、それ自体、うそであるなら、そこでおわりだ。人間社会は疑心暗鬼の原始の社会へ戻っていく。これも、自然なのかもしれない。

#日経COMEMO #NIKKEI

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