妄想:庶民をあきらめさせる強権主義

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「この事件はおかしい」、そう思うのだ。何年か前もあった。「強権政治の自作自演」。なぜ、自国民が襲われる事件を当局が引き起こすのか。

管制選挙で圧倒的な勝利を手にした最高権限・権力者。強権を手放さず、更に強固な権限・権力維持に邁進する。そのために必要なのは「恐怖」である。だが、直接に手を汚すことはしない。また、政権に批判が及ぶことはしない。できれば、「恐怖を排除する強い政権」を演出したい。

自国民の周りには常に「脅威」があり、それを強い政権と最高権限・権力者が排除し続けるという日常に、国民は財産と生命を預ける。場合によっては進んで政権に協力し、「役に立っている存在」として満足を求める。

では、護るべき自国民をなぜ巻き込むのか。それは「安全を保つためのリスク」が念頭にあるからだ。何事にも「安全」を維持するためにはリスクが伴う。例えば、「安全ケースA」については、1000万人の安全のために、1万人の死者がでる。これは、確率の問題だ。

そうであるなら、500人の内、何人が死んだら「(必要悪である)安全のためのリスク」に合致するのか。その計算の下で、「厳しい現状だが、安全は守られた」と国民に報告できる。それを強権主義は利用するのだ。「脅威の排除ができる強い指導者」を演じることができる。

過去の歴史にたびたび登場する「必要悪」。権力を握ったものが手放さない都合のよい「悪」である。現在の交通事故で死亡するより確率の低い悪である。これをいつ世に放つか。その判断は経験を積み重ねるごとに鋭くなっていく。

だが、やがて、自作リスクは自作ではなくなる。最高権限・権力者の周辺から鉄壁な演出にほころびが生じる。それを隠そうとする輩がさらにリスクを取ろうとする。確率が目論見から崩れていく。やがて、社会不安となって大きな波となり最高権限・権力者はその椅子から転げ落ちることになる。

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