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散らかった部屋で何思ふ・第1回 ”あれから”

お久しぶりです。HORIHORIでございます。

ここ数か月間、すっかりnoteを放置しておりました。今回は、その理由からまずご説明しようと思います。

第1章 うつを発症してから

2021年6月中旬ごろから、うつ状態となり、約1ヶ月以上、自宅で横になってYouTubeを観るのが精一杯な状態が続きました。

そこから、少し浮上はできたのですが、母は、どうやら”回復している”と思ったのか、厳しく接してくるようになりました。

無理なく就労移行支援事業所には通っていたのですが、母はそれには満足していませんでした。

「決まった曜日に決まったメニューをこなせないと、働いていけないよ!!」という、母のスタンスが、かなりプレッシャーになっていたのも事実でした。

また、母は、どちらかと言うと、勢いで暴言を言ってしまうタイプでした。

今までは、それに対して、何とかスルーするなりして、対処はしていました。ですが、うつになってから回復傾向にある時期辺りに、自分自身のキャパオーバーを感じるようになっていきました。

たとえ本心ではなかったとしても、「うつは怠け病だ!」とか、「最近の若い子は弱い!」などといった発言を毎日のように浴びせられたら、誰だってしんどいです。

母も、僕を奮起させようという気持ちで、そういった喝を入れていたのだと思います。それは当時でも、頭では理解が出来ていました。

しかし、当時の僕は、相当弱っていたように思います。だから、耐えられなくなってきた部分もありました。

そうして、独り暮らしについて、意識して考えるようになっていきました。

就労移行支援事業所の方々とも相談し、市役所の方々とも相談し、その時初めて、”グループホーム” という存在を知ることとなりました。

ですが、グループホームを利用するためには、”支援区分”という認定を受ける必要があるらしく、すぐには利用できないとのことでした。

ゴールが見えてきた。そう思ったのですが、そのゴールよりも前に、精神的なしんどさが耐えられないレベルにまで達してしまいました。

”自宅に帰るのが嫌だ、小言を毎日聞かされるのは嫌だ!”

その思いが、日に日に強くなり、ある日の朝、急いで市役所へ飛び込みました。担当職員の方々に、僕の現状をお伝えして、急遽、市の療養施設への入所を手配してくださることになりました。

市役所の職員の方々と一緒に、母に何とか説明をして、理解してもらい、必要なもの(身の回りの物など)をカバンや袋に詰めて、約2ヶ月間の療養所生活がスタートすることになりました。

第2章 療養施設での生活

こうして、療養施設での生活が始まったのですが、そこでも、色々と大変でした。

コロナ禍の影響で、自由な外出はできず、事前に「この日は通院です」などといった報告をして、外出日を決める、そんな日々でした。

また、療養施設という都合上、どうしても、大きな声を出してしまう利用者さんも居られたので、夜中に大声で目覚めるといったことも多かったです。

それでなくても、自由に外出が出来ないストレスを抱えているのに、睡眠不足も相まって、結構悲惨な状況でした。でも、自分で選んだことです。しんどいながらも、何とか受け入れながら過ごしました。

ですが、プライベート空間は、ちゃんと確保されていましたので、それだけが唯一の救いでした。

あと、お風呂が広くて綺麗で、ありがたかったですね。毎日ゆっくりと、広い湯船に浸かるという経験自体が、僕にとっては初めてのことでした。

実家暮らしだった時には、湯船に浸かる習慣はありませんでしたので…。ずっとシャワーだけでした。

この約2ヶ月間、ストレスが全て”食”へ集中してしまい、毎日のように、外出時に買い溜めしたお菓子をドカ食いしておりました。

そんな大変な日々でしたが、色々なことを学ぶことができました。

自分は独りぼっちではないということ。
自由に外に出られることのありがたさ。

そういったことを学ぶことができたように思います。

第3章 グループホームの物件探しから、引越しをするまで

2021年10月某日。療養施設にて、新しく着任した計画相談支援者と初めて面談をしました。

そして、母も交えての面談なども重ねていき、体験入居ができそうなグループホーム(ワンルームマンション型)を紹介してもらい、体験入居という名の、”本格的な独り暮らし”がスタートしました。

部屋も比較的広く、お風呂とトイレが別であること、工夫すれば、実家の大量の私物も、何とか入るであろうという観点から、”この部屋に決めよう”と決断。

母に引っ越しの段取りをしてもらいながら、少しずつ、実家の私物を梱包する作業を行いました。大量の物を段ボールに梱包していく作業は、想像以上に大変でした。母に「要領が悪い!」と言われながら、最終的には母と二人で梱包作業を完了させました。

段ボールにして50箱。想像以上の物量でした。

そして、2021年11月中旬に、正式入居ということで、実家の荷物が全て部屋に搬入されました。

第4章 大量の荷物と、メンタル不調の波

実際に全ての荷物が搬入された時、部屋はほとんど段ボール箱のタワーで埋め尽くされていました。

元々、片付けることが大の苦手でしたので、案の定、部屋はぐちゃぐちゃになってしまいました。

ですが、グループホームのスタッフさん達が、片付けのサポートをしてくださったお陰で、何とか生活スペースができました。

安心したと同時に、自分の無力さを痛感し、精神的に不安定になってしまい、再びメンタル不調の波が押し寄せてきたのです。

そんなある日、急に声の出し方が分からなくなりました。声を出そうとすると、苦しくなるようになり、全く声が出なくなってしまいました。

心療内科の主治医の先生から、『心因性失声』という診断を受け、「自然に声が出るのを待つしかない」という事実を突きつけられました。

声が出ないことって、こんなに不便なのだな、と痛感させられました。買い物に行くにしても、通院するにしても、全て筆談。とにかく、心身共に消耗していました。

第5章 さりげない母の優しさに触れて

グループホームでの独り暮らし生活が始まってからは、定期的に母と連絡を取り合うようになりました。

お互いの近況などを話したり、そんな風にして、母とのすれ違いも、少しずつ解消されていったのです。近過ぎず、遠過ぎず。そんな関係性の方がお互いにとって合っていたのだと思います。

声が出なくなったことも、もちろん報告していたので、ある日、差し入れを持って、僕の自宅まで来てくれました。

そして、母が帰り、その日の夕方。改めて差し入れの中身を確認したところ、小さな封筒が入っていることに気が付きました。

その封筒には、「これお見舞い。ご飯だけはちゃんと食べな。声が出ることを願ってる」というメッセージと共に、5万円が入っていました。

不器用な母なりの、優しさに触れた瞬間でした。

”お母さんのためにも、声を出せるようになりたい!”
そう強く思い、好きな音楽を再生して、部屋で一人、声を取り戻す練習を始めました。

まずは、せめて鼻歌だけでも声が出るようになりたい、というイメージで、何回も、何回も、練習を繰り返しました。

そして、少しずつ、少しずつ、自分の声が戻ってくる感覚を取り戻していき、やっと普通に会話ができるまでに回復させることができました。

声が出た瞬間、嬉しくて泣きました。

第6章 就職活動を再開させる

2022年1月中旬になる頃には、心身共に順調に回復が進み、心療内科の主治医の先生から、就職活動の再開の許可が出ました。

そこで、早速、ハローワークにて求人検索を行い、求人に応募し、1社目は書類選考で不採用。2社目は応募書類を送るも、全く音沙汰がない状況(結局何の連絡もないまま終了)。

そして、3社目。在宅勤務メインのA型事業所の求人を発見し、早速見学させてもらうことに。代表の方も、心理カウンセラーなどの資格をお持ちで、僕の拙いお話を、真剣に聴いてくれました。

「zoom面接の日程を調整しますね」とおっしゃってくださり、心の中で思いっきりガッツポーズをしました。

こうして、zoom面接を経て、無事採用に至り、2022年3月1日より、在宅勤務という形での”社会復帰”を達成させることができました(月に1回だけ事務所へ行く必要はありますが…)。

最後に

こういった”紆余曲折”がありましたので、しばらくnoteから離れておりました。本当に、昨年から今年にかけて、色々な経験をして、その中で沢山のことを学びました。

何より、”独りぼっちじゃないんだ”と思えるようになったこと。このことが、一番大きいな、と、今振り返ってみて思いました。

これからも、少しずつ、少しずつ、前へと進んでいけたら良いな。
そう思っております。

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