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二本松春紀行~寺院編

10日に訪れてきた、二本松。
先に「桜」については別途特集を組みましたが、他にもちらほらと名所?巡りをしてきました。


台運寺

ここは、「直違の紋~」のラストで剛介と座乗家老であった丹羽丹波の対峙の舞台として使ったお寺です。
ですが、今になって告白します。
どうやら、銃太郎のお墓は正慶寺が正解な模様……。

勘違いの原因は、参考資料として使った某資料の二本松少年隊についての情報が間違っていたこと。ですが、今更変えられないですし。
使用した資料は結構孫引きが多いことが後から判明していまして、臍を噛んでおります。
それでも、まったく無駄足だったわけではなく、久保猪之吉先生に関する墓碑を見つけたり。
(※久保猪之吉先生は、碑文にもあるように少年隊の一人、12歳で出陣した久保豊三郎の甥に当たります)

「戒石銘」の岩井田昨非様のお墓を見つけたりで、結構満足しております。

根崎文殊

ここも、前回安達ケ原ふるさと村に行く途中で、気になったスポットです。
慶応4年の戊辰戦争の城下戦で、ここで砲撃戦に参加していたのが、当時17歳だった小澤幾弥と、その師匠である朝河八太夫。
その現場を見てみたい!ということで、急斜面を上ってきたのでした。

そして、ここで思いがけない邂逅が。
半年ごとに日本とスペイン(セビーリャ)を往復されている、二本松縁の方と出会いまして、この日出版されたばかりだという歌集を頂きました。
お名前を出して良いものやら迷いがあったのですが、今江様と仰る恐らく二本松藩士の末裔の方と思われます。

花見山 幾星霜の半世紀 一人の翁の夢の繚乱

(歌集:『青の航跡』より)

歌自体は文語調の御歌が多く、私好みという印象を抱きました。
そして、御礼のメールの中でも触れさせていただいたのですが、ひょっとすると、『鬼と天狗』の5番組の一員と縁の有る方なのかもしれません。
先に回ってきた台運寺では今江家の墓地も確認しており、これが古の二本松藩士の「見えざる手」の導きだったとしたら、奇跡的としか言いようのないご縁です。

さて、肝心の眺望です。
結構「小山」という感じの場所で、この小山側を通っている「三森町通り」は、そのまま奥州街道の北口に当たります。

以前に作ったことのある、家臣団の屋敷割図より。
真ん中よりやや下の観音丘陵を挟んで下側の街を横切っている道が、当時の奥州街道。この北側入口の関門に配備されていたのが、朝河八太夫率いる砲術隊、そして南側関門である大壇口の要所に配備されていたのが、銃太郎率いる木村砲術隊でした。

ちなみに、Googleマップで幾弥が愛宕山から戦死した久保町坂入口までのルートを再現すると、このような感じでしょうか。
実際には西軍の目を避けて観音丘陵の道なき道を辿ったかもしれませんが、重症の身でありながら恩師の体を担ぎ、御城を目指したものの久保町坂入口にあった大手門のところで力尽きたことになります。

黒塚・観世寺

さて、今回訪れようと思っていた場所の一つは、「黒塚」です。「安達ケ原の鬼婆」というと、ご存知の方も多いのではないでしょうか。ここも昔(高校生の頃)訪れたことがあるのですが、私の中では割とホラースポットなんですよね^^;

「黒塚」のざっくりしたあらすじを紹介すると……

安達ケ原の「鬼婆」は、元の名を「岩手」といい、京都のある屋敷の乳母であった。長年大切に育てた姫の病気を直したい一心で、「妊婦の生肝を飲ませれば治る」という易者の言葉を信じ、遠くみちのくに赴いてたどり着いた場所が、安達が原の岩屋であった。
ある晩秋の夕暮れ時のこと。伊駒之助いこまのすけ恋衣こいぎぬと名乗る若夫婦が一晩の宿を願ってこの岩屋に辿り着いた。その夜、身ごもっていた恋衣は俄かに産気づき、伊駒之助は薬を求めて外に出ていった。
岩手はこれを好機として出刃包丁をふるって恋衣の腹を切り裂き「生肝」を取り出したが、この恋衣は、岩手が京都にいた折に生き別れになった娘だった。恋衣の身につけていた守り袋を見てその正体を知った岩手は発狂。鬼になってしまったという。
以来、宿を求めてきた旅人を殺して食し、「安達が原の鬼婆」として全国にその名が知れ渡るようになった。
数年後の神亀3年(726年)、紀州熊野の僧「東光坊とうこうぼう祐慶ゆうけい」がこの岩屋をそうとは知らず、訪ねたことがあった。
岩手はそしらぬ顔をして東光坊を泊め、寝屋を決して覗かないように言い渡した。だが、岩手の目を盗んで東光坊が寝屋を盗み見たところ、そこには累々と積み重なる死屍があった。秘密が暴かれ、怒り狂う岩手は東光坊を凄まじい勢いで追いかけたが、東光坊は背負っていた如意輪観音の笈をおろし、祈願すると虚空に観音像が舞い上がり、観音は一大光明を放って白真弓で鬼婆を射殺したという。
以後、この鬼婆(岩手)が埋められた塚を「黒塚」と呼ぶようになり、平兼盛の

みちのくの安達ケ原の黒塚に
鬼こもれりと聞くはまことか

という歌を始め、様々な風流人の作品のモチーフとなってきた。

「祈り石」。
岩手が、逃げる東光坊の足止めを祈願したといわれる石。

笠石。岩手は、この岩が載った?岩屋に住んでいたそう。

出刃洗の池。別名「血洗の池」とも。
岩手は、ここで殺した人の血に塗れた出刃包丁を洗っていたと言います。

鬼婆の石像。
やったことが許されるわけではないのですが、元はと言えば主の為に罪に手を染めた悲しき女性とも言えます。
女のさがというか情念というか。
「黒塚」の伝承は、単純に「ホラー」とは片付けられない物悲しさを感じさせます。

ちなみに、個人的に心惹かれた……というか、「鬼と天狗」の参考になったのが、この養蚕神の石碑。
建立されたのが「文久元年(1861年)」で、丁度「鬼と天狗」の時代とほぼ被っているのですよね。
当時、この辺りは「大平村おおたいらむら」の区分だったようですが、この頃の安達地方にとって、如何に養蚕が大切な生活の糧だったのかがよく分かる石碑です。

この黒塚のある「観世寺かんぜじ」宝物館には、岩手が使用したと伝えられている出刃包丁や、胎児の生肝をしまっていたという壺なども展示されています。
また、何気にこの地で戦死した「三浦権太夫」の肖像画も、ひっそりと宝物館の片隅に展示されています。ホントに烏帽子直垂の時代錯誤の格好ですが(苦笑)、その肖像画の上に綿々と綴られている文章は、恐らく弟の三浦忠晃氏の手によるもの。(もしかしたら肖像画も)
忠三(忠晃氏の幼名)は権太夫と20歳ほど年が離れており、『鬼と天狗』では兄の権太夫に叱られて泣いたりしていますが(江戸震撼(3))、きっと兄のことが大好きだったのだろうなあ……なんて、微笑ましく感じました。

他に、白河藩主でもあった松平定信も遊びに来ていたらしく、つぎのような歌が残されています。
日本史の教科書などでは評価が今ひとつ?の定信公ですが、この歌からは、福島を愛し守ろうとした、領主としての姿が伺えるのではないでしょうか。

行く末は安達ケ原の露の身も
国を守りの鬼とならなん

松平定信

☆安達ケ原観世寺

そして、最後に一際印象に残った歌をば。

皆人みなびとの心の奥のかくれうあ
鬼も仏もわれも住むなり

(詠人不詳)

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