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丹羽家ファミリーヒストリー~後編

前回の続きです。
実は「前編・後編」に分けようと思っていたのですが、三代目光重公のパートがかなりのボリュームなので、さらに分けました。

丹羽家草創期の前編・中編についてはこちらからどうぞ!


名君光重公

光重公肖像画。

長重の死後、16歳で家督を継いだのは長秀から数えること三代目の「光重公」でした。
この諱は三代目将軍、「家光」の偏諱が許されたもので、「城報館」ではそのときの書状も展示されています。
元服は寛永12年(1635年)のことでした。

家光公から偏諱を許された書状。

現在の二本松の礎を築いた名君として名高い光重公ですが、その出自は側室腹。生母は山形氏の娘(家臣の1人)でした。
父長重が棚倉に移封されたのをきっかけとして、棚倉において、やはり家臣である中川文右衛門夫妻によって「我が子同然」に育てられます。

長重の正室は織田信長の娘(報恩院と呼ばれます)でしたから、誇り高い方だったのでしょうね。7歳で報恩院と初めて対面したときに、嫉妬に怒り狂った彼女から、宮松丸(光重の幼名)が短刀を投げつけられたというエピソードが残されています。
この時は家臣の機転で事なきを得て(かばったのはやはり番頭・家老筋の家柄の樽井たるい重継)、賢く穏やかな気性の光重を、さすがの報恩院も後には我が子の如く可愛がったと伝えられています。

その性格は
• 頴敏にして和気温容
• 剛勇
• 贅沢を嫌い、飲食・衣服も質素にするように周りの者らに勧めた

とあります。確かに、名君と言われるだけのことはありますね。

二本松の基礎を作り上げた光重

さて、寛永20年(1643年)に光重は同石で白河から二本松に移封となります。これは、前任者の加藤氏が色々やらかして石見国(島根県)に移封。その後会津領の分配の見直しが行われ、安達郡69村+安積あさか郡41村が新しい丹羽氏の領土となったのでした。

下の写真が、4代将軍「家綱」名義で出された所領安堵状と、その内訳の目録です。

地図で見ると、二本松藩の広大さがよくわかります。
現在の二本松市+安達郡のほぼ全域、そして郡山市の2/3が二本松藩領でした。
(郡山の東部は守山藩、南西部は恐らく会津藩領)

二本松自体は、古くは南北朝時代から奥州探題として足利幕府から派遣された畠山氏(最終的に伊達政宗に滅ぼされました)の居城でしたから、ある程度城郭の基礎は出来ていました。
ですが、前任者である加藤氏の石高が3万石だったのに対し、10万石余りの丹羽氏の城下町としては、手狭です。

そこで、光重は城下町全体を防御を意識した街づくりを行い、現在の二本松市街地の基礎となっています。

展示されていた丹羽家所蔵の「二本松城下絵図」。
現在でも「二本松藩」を語る際に用いられる各種地図は、恐らくこの絵図がベースになっていると思われます。

絵図の真ん中に、東西に延びて町を二分する「観音丘陵」があります。
観音丘陵を境にして、内側が郭内かくないと呼ばれ、武家屋敷が置かれました。その外側には町家や寺社(郭外)を分離移設したのです。

ちなみに加藤氏が支配していた頃までは、このように観音丘陵の内側に全てのエリアが固まっていたのでした。

分離した武家屋敷と町家エリアの連絡には丘陵の頂上を切り下げて「切通」とし、4つの城門を整備。この4つの門は、西から順に

• 松坂門
• 大手門(久保丁坂入口)
• 池之入門
• 竹田門

と推定されます。

赤丸のついた部分が、左から順に松坂門・大手門(坂下門とも)・池之入門・竹田門。

中でも久保丁入口にあった大手門は、「総欅造り、柱は二尺、門の扉の厚さは8寸以上(約24cm)あったとされ、さらに「一双の鯱」を上げた重厚な大手門であったと記録されています。


もっとも、財政上の理由から全て冠木門、すなわち木造建築の門だったとされています。門は藩の顔でもあり、格式を表すもの。光重公を始め、代々の藩主は「大手門だけは櫓門に」と何度も幕府に願い出たそうですがなかなか許可されず、それが叶ったのは9代藩主、長富公のときでした。
それも三十年余り後の戊辰戦争で、壮麗だったであろう大手門は焼け落ちてしまいます。

大手門跡。奥に見える建物は、今回の訪問でかなりお世話になった二本松図書館。

「直違の紋~」で小沢幾弥が戦死したのが、丁度この大手門のあった場所でした。

また、奥州街道も町家エリアのみを通るように付け替え、旅人の目からは郭内や城内の様子を伺えないような都市設計を行っています。

さらに、松岡町~本町にかけては宿駅を整備。
福島県内では白河に次ぐ規模の宿駅として、賑わいを見せました。

出典:大日本國東山道陸奥州驛路圖

参勤交代の監視役

寛永16年(1640年)、徳川幕府の命令によって「参勤交代」の制度が始まります。このとき、光重公はまだ白河城主でしたが、実は幕府から重大なミッションを任されていました。
それは、「奥羽の大名らの参勤交代を見届ける役目」。
「鬼と天狗」でも書いていますが、参勤交代の時期は、春と秋がピークです。本宮町史の記録などを追ってみると、どうも春が参勤(出府)、秋が交代(帰藩)の時期として決められていたようです。
ですが、丹羽家は例外?で、出府(江戸に行くこと)の際、4月に参勤することになっていました。(旧暦で4月は夏です)
特に幕府が警戒したのが、

• 仙台藩(伊達家)
• 秋田藩(佐竹家)
• 米沢藩(上杉家)

でした。これらの大名が、奥羽の咽喉元である「白河」を通り過ぎるのを見届けてから、二本松は参勤せよとのミッションが課されていたのです。
裏返せば、それだけ徳川幕府から厚く信頼されていたのでしょう。

この役割は4年後の寛永20年に丹羽家が二本松に移封されてからも続き、市内鏡石寺きょうしゃくじには、「伊達家が二本松城下を通過する際、常に鉄砲組に火縄に火を点けさせ、銃口を本丸に向けさせていた」ので、それを防止するために、鏡石寺に大猷院だいゆういん(三代将軍家光)の廟所を祀った」という言い伝えが残されています。

余談ですが、このときの伊達側の言い分は、政宗公の父輝宗が旧二本松城主畠山氏に謀殺されたのを忘れないための戒めの行事だったということです^^;

引退後の光重公と「松の廊下事件」

さて、光重公が隠居したのは延宝7年(1679年)。代々の二本松藩主の中で一番長命だったのが光重公で、入道して「玉峯」の号を用いています。
前に紹介した「大谷家の亀松」を可愛がっていたのも、この頃の話ですね。

光重公は茶人・画人としても優れていたらしく、引退後は城の西側にある別館(通称本町谷御殿)に住んでいたとのこと。
先日俳句を詠んだ「るり池」や「笠松」のある辺りが本町谷御殿のあったところで、庭園には、光重公が建てさせたという「洗心亭」も残されています。


藤の木は、智恵子抄で有名な「高村智恵子」の実家、長沼家から譲られたもの。ここに広がる池は「霞池」と呼ばれています。
光重公の頃に建てられた「洗心亭」。茶室ですが、今でもここでお茶などを頂くことができます。
丹羽神社。代々の藩主を神として祀っているのでしょう。もちろん、しっかり「直違紋」の幟や幔幕が張られています
笠松。
るり池。

元禄13年(1701年)11月、光重公は重病に陥ります。光重公には嫡子である長次公などがいましたが、光重公よりも早く亡くなり、その後を継いだ弟の長之公も早逝。後に残されたのは曾孫(実際には光重公の実孫)であるわずか8歳の秀延公のみでした。

そんな彼の元にもたらされたのが、翌年2月に江戸殿中で起こった、「松の廊下事件」でした。
皆様御存知の「赤穂浪士」のきっかけとなった事件です。

これは吉良上野介に対して浅野内匠頭が切りつけ、即日浅野内匠頭は切腹。赤穂藩浅野家はお取り潰しになったという事件です。
丹羽家でも、重臣の1人である浅尾主計を浅野家に派遣して、様子を伺わせた記録が残されています。

赤穂藩初代藩主浅野長直の正室は、光重公の姉でした。つまり、光重公は浅野長矩ながのり(内匠頭。長直の孫)の大叔父に当たります。
そこで、

なぜ斬った。突きさえすれば、殺せたものを!

と、病身であるにも関わらず、激怒。
二本松の剣法は「突き」を基本とする「小野派一刀流」が主流ですので、この激怒を招いたというわけです。

そして、手にしていた煙管きせるを煙草箱の灰入れに叩きつけて凹ませた、という次第。

確かに、灰入れの縁が凹んでいます。
ただし、同年4月11日に光重公は没していますので、赤穂浪士による討ち入り及び復讐劇は、知らずに亡くなられたのでした。

光重公の遺言

二本松藩の開祖として、光重公は現在でも深く尊敬されています。幕末の頃であれば、尚のことだったでしょう。
既に彼の頃は平穏の世を迎えていたとはいえ、嫡子を相次いで亡くし、幼い孫や藩の行く末はさぞ案じられたに違いません。

3月には意識も混濁し、飲食なども覚束なくなったと伝えられています。
4月1日には、もう回復することはないと悟ったのでしょうか。苦しい息の中で、重臣らを集めて家政のことを細かく指図して記させ、黒印を押して手づから老臣らに授けました。

そんな彼が残した遺訓は、次のようなものです。

• 節倹を示して奢侈の風を防げ。
• 玩具の類鄙事を以て放逸ならしはるなかれ。
• 上は公命を尊重し、下は民を仁恤せよ。
• その大事あるにあっては公私を論ぜず。
• 備前少将綱政(光重の婿=池田綱政)の指令を受け、他の意見を信用するなかれ。
• 小事に於いては汝ら商議して之を決せよ。
• 百事先継を守て時勢の損益を考かへ、毫も私意を挟むなかれ。

二本松のシンボルの一つである「戒石銘かいせきめい」ができたのは更に後の時代ですが、光重公の頃から既にその片鱗が伺えるのではないでしょうか。

彼の遺訓からは、二本松藩の風潮である「質素倹約」「パブリック奉仕」「民を慰撫する」という精神を読み取れます。


ここから約170年後の幕末、二本松藩も激動の時代を迎えます。
子孫らが迎えた新たな二本松藩の苦難を、先祖らはどのような思いで彼岸から見守っていたのでしょうか。
次回は、「城報館」で展示されていた「二本松の教育事情」について、解説します。

<参考資料>
二本松市城報館パネル
丹羽家譜(4)
ウィキペディア

写真撮影者:k.maru027

©k.maru027.2023

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