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丹羽家ファミリーヒストリー~中編

前回は、丹羽家がお取り潰しになったところで終わりました。

今回は少し遡って天正11年(1585年)、長秀公の息子である「長重公」が家督を継いだところから始めたいと思います。


秀吉に警戒された二代目

長重公が家督を継いだときの封土は、どうやら越前国・若狭国・加賀国2郡の合計123万石だったようです。ですがこの年、佐々さっさ成政の越中征伐の従軍の際、家臣(成田道徳)が佐々側に内応したとの疑いをかけられました。長重はそれが原因で越前・加賀の領土を召し上げられて、若狭のみが安堵。領土は15万石に一挙に減らされたのでした。
のみならず、長秀以来の重臣らを召し上げられます。その中には、晩年の豊臣政権下で五奉行として活躍した長束正家もいました。

余談ですが、先代長秀に仕えた家臣らは、仕官した時期によって概ね次のようなグループに分類できます。
このうち、太字は幕末の二本松藩まで続いた家柄です。
(漏れもあるかもしれませんが……)

ですが、このときに長重は家臣をかばったのでしょうね。この成田氏の子孫も代々忠臣として丹羽家に仕え続け、やはり番頭(時には家老も)クラスの家柄として幕末まで存続します。「直違の紋~」で剛介の友人として登場した成田虎治や、城下戦で命を落とした成田才次郎らがその末裔です。

長重が減封になったのはこれだけではありません。天正15年(1587年)の秀吉九州平定の際にも、家臣の狼藉を理由として、若狭国も取り上げられました。与えられたのは、加賀松任まつとう4万石のみ。
このときの家臣が誰だったのかは、はっきりしておらず、秀吉が丹羽家の勢力削減を狙って「言いがかり」をつけたとする説が、近年では有力です。

その後、秀吉の小田原征伐に従軍して、このときに加賀小松12万石に加増・移封されます。三位、参議・加賀守に任官されたので、小松宰相とも呼ばれました。
慶長3年(1598年)秀吉死去の際には、家康から前田利長監視の命令を受けたとされています。

丹羽家の運命を変えた浅井畷の戦い~大名としての復帰

前回書いたように、浅井畷あさいなわての戦いにおいて、長重は前田利長と対峙する形になりました。
長重が西軍に与していたかどうかははっきりしませんが、とにかく関ケ原の勝者である家康から、これが「軍令違反」と見做されて改易となったわけです。
ですが、家康&2代目将軍である秀忠も、元々は丹羽氏を高く評価していたのかもしれません。3年後(1603年)には常陸古渡ふっと1万石を与えられて、大名に復帰します。
古渡は、現在の茨城県稲敷市にあったところだそうです。

さらに慶長19年(1614年)、大坂の陣で武功を挙げたことにより、1617年、長重公は秀忠の御伽衆に抜擢されます。要は、秀忠の相談役ですね。
加えて、元和5年(1619年)に常陸江戸崎2万石に移封。古渡も江戸崎も後に廃藩となり他の藩に吸収合併されますが(どちらも現在の稲敷市)、丹羽氏が茨城とも縁があったことはあまり知られていないかもしれません。
ですが、後の「水戸藩の天狗党征伐」に際して、そのときも財政的にかなり厳しい状況でした。それでも、草創期に丹羽家が常陸と縁があったことが、二本松藩が幕軍の「天狗党討伐」の勅命を拝受・遠征した遠因になっているのではないでしょうか。

元和8年(1622年)には、陸奥棚倉たなぐら5万石に加増・移封されます。
この頃と前後するように、改易に伴い一旦離散していた旧丹羽家の家臣も戻ってきて、丹羽家の家臣の来歴について記した「世臣伝」には、「古渡以来~」「棚倉以来~」というような表記が多く見られます。
そして長重は、幕命ということもあり棚倉城築城に着手しました。

白河の藩主として「奥州の関」を任される

ところで、この頃隣国である会津地方を任されていたのは、蒲生忠郷(蒲生氏郷の息子)でした。秀吉の奥州仕置によって、会津~二本松~白河一帯を治めていたのが、蒲生氏郷→上杉景勝→蒲生忠郷→加藤嘉明、というところでしょうか。
この頃は白河や二本松は「会津領」と分類されていました。

ですが蒲生忠郷の死去に伴い、広大だった会津領を分割。会津~二本松の地域は加藤嘉明が、白河は長重が預かる事になります。このときの白河の石高は10万700石。
この加増に伴い、白河にも「小峰城」を築城します。
さらに、旧丹羽家家臣団だけでなく、前領主である蒲生家などの旧臣も召し抱えたことから(恐らく、安部井磐根の安部井家はこのグループ)、丹羽家の財政は逼迫したと言います。

白河小峰城。2021.4.3 著者撮影

長重公は寛永14年(1637年)、江戸桜田上屋敷にて亡くなりました。
晩年を白河藩主として過ごしたために、福島に縁のある「丹羽のお殿様」で、彼だけは白河市にある「歴代白河藩主霊廟」で眠っています。
法名には「大隣寺」がついていますが、彼が白河で建立させたのが正に丹羽家の菩提寺である「大隣寺」。後に丹羽氏の二本松移封に伴い、大隣寺も二本松に移されたと「二本松寺院物語」(平島郡三郎著)では記されています。

長重公の人柄

二代目は何かと先代と比較されがちですが、長重公は「築城の名手」として、その才能をしっかり父親から受け継いだに違いありません。
城マニアの間では、棚倉城も小峰城も城としての価値を評価されているらしく、また、白河小峰城は総石垣づくりの城。東北地方では、割と珍しいパターンだそうです。
石垣の組み方は特殊技術が必要(穴太衆でしたっけ?)ですから、これも、美濃・近江に縁があった丹羽氏が入封したからこそ誕生した名城なのでしょう。

また、長重公の遺言が、なかなか振るっています。

「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」

この遺言も、幕末の二本松藩の行動を考察した際に、二本松藩の性格をよく表しているなあと私は感じるのです。
方針がコロコロ変わる幕府首脳陣に振り回されながらも、一本筋を通した二本松藩の在り方は、長重公の遺言にも見ることができるのではないでしょうか。

個人的には、地味(失礼)ながらも堅実に、かつしたたかに生き延びようとした長重公も、評価されて然るべき人物のように感じられます。


さて、次世代の「光重公」についてです。下書きの段階では長重公と一緒に語るつもりだったのですが、何と言っても「二本松藩の藩祖」。そのエピソードもかなりのボリュームになったので、さらに次回へ続きます。

<参考資料>
二本松市城報館パネル
丹羽家譜(4)
ウィキペディア
二本松寺院物語

写真撮影:k.maru027

©k.maru027.2023

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