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奥州から来た佐藤兄弟。佐藤継信(兄者)佐藤忠信(弟者)【史料で見る義経のスマホ】

攻めてますね、義経のスマホ。

あの意識高い系の人たちが醸し出す絶妙な感じをTsurutterでリアルに再現し、義経に「苦手だな…」と言わせるの、すごいです。

製作者の人、意識高い系の人に嫌な目にでも合わされたんですかね。

いつもアグリーって言われてイラっとしてるんですかね。

そのなかで上総介広常のツイートが、おじさんを思わせる絵文字のツイートで、凝ってるなと思いました。内容も武衛の大願成就…。せつないですね。

公家モンでミチザネーをゲットし、Tsurutterアカウントの「源氏のシャナ」で、義経の幼名にかけつつ、あのラノベを思い起こさせ、大江広元は「それあなたの感想ですよね」の人に擬態させと、結構やりたい放題ですね。この放送局は攻めなくてよい場所をたまに攻めてきますね。

そんなネタのなかでも、少しマニアックなものを取り上げようと思います。

義経が奥州から頼朝に会いに行くときに、FUMIのグループ参加通知が、義経のスマホに来てました。

「佐藤継信(兄者)」と「佐藤忠信(弟者)」です。

これ、流石兄弟かゲーム実況か、どっちなんでしょうね。前者だったらかなりディープですね。

この兄弟、特に弟者に面白いエピソードがあるんですよ。

ということで、史料から見てみましょうという話です。

藤原秀衡が義経につけた勇士、佐藤兄弟

さす…さとう兄弟が初めて吾妻鏡に現れるのは治承4年(1180)10月21日です。

以下は義経と頼朝が富士川の合戦の後に、黄瀬川の宿で初めて対面したときの話です。

この話自体が長いのですが、その最後に、奥州藤原秀衡が義経につけた勇士として、佐藤兄弟が出てきます。

漢文は長いので読まなくて大丈夫です。

今日弱冠一人、御旅舘之砌、称可奉謁鎌倉殿之由。実平、宗遠、義実等恠之不能執啓、移尅之処、武衛自令聞此事給。思年齢之程、奥州九郎歟。早可有御対面者、仍実平請彼人、果而義経主也。即参進御前、互談往事、催懐旧之涙。就中、白河院御宇、永保三年九月、曽祖陸奥守源朝臣義家、於奥州、与将軍三郎武衡、同四郎家衡等、遂合戦、于時左兵衛尉義光、候京都、伝聞此事、辞朝廷警衛之当官、解置弦袋於殿上、潜下向奥州、加于兄軍陣之後、忽被亡敵訖。今来臨尤恊彼佳例之由、被感仰〈云云〉、此主者、去平治二年正月、於襁褓之内、逢父喪之後、依継父一条大蔵卿〈長成〉之扶持、為出家登山。〈鞍馬。〉至成人之時、頻催会稽之思、手自加首服、恃秀衡之猛勢、下向于奥州、歴多年也而今伝聞武衛被遂宿望之由、欲進発処、秀衡強抑留之間、密遁出彼舘首途。秀衡失悋惜之術、追而奉付継信、忠信兄弟之勇士〈云云〉。

吾妻鏡 治承4年10月21日 抜粋

感動的な対面シーンですが、義経のスマホでは弁慶や佐藤兄弟からの無茶ぶりで、義経はウソ泣きしてましたね。

泣き押しなのが笑いました。

弁慶にセリフを言わされている演出がめちゃくちゃ面白かったです。

屋島の戦いで討ち取られる兄者継信

佐藤兄弟ですが、義経と共に平家打倒に西国に向かいます。

ですが、兄者継信は元暦2年(1185)2月19日の屋島の戦いで討ち死にしてしまいます。これは義経の美談としてよく語られる話です。

このエピソード自体は平家物語にもありますが、吾妻鏡の記述とは詳細が違います。

平家物語では平教経が義経に射かける弓を防ぐために、義経の前に郎党が立ちふさがって戦うというシーンです。

この郎党の中に継信も出てきます。そのときに継信が弓で殺されるのが平家物語の内容です(延慶本・平家物語 八嶋に押し寄せ合戦する事)。

吾妻鏡では平盛嗣、藤原忠光と戦ったときに討ち取られたとあります。ちなみに藤原忠光さんは後年に頼朝の暗殺に失敗する人です。

此間左藤三郎兵衛尉継信同四郎兵衛尉忠信、後藤兵衛尉実基、同養子新兵衛尉基清等、焼失内裏并内府休幕以下舎屋。黒煙聳天、白日蔽光。于時越中二郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛尉忠光、〈平氏家人〉等、下自舩、而陣宮門前、合戦之間、廷尉家人継信、被射取畢。廷尉大悲歎、■一口衲衣、葬千株松本。以秘蔵名馬、〈号大夫黒、元院御厩御馬也。行幸供奉時、自仙洞給之。毎向戦場、駕之。〉賜件僧。是撫戦士之計也。莫不美談〈云云〉。

吾妻鏡 元暦2年2月19日 抜粋

義経は継信の死を非常に悲しみ、僧から衲衣もらって、継信の遺体を千株松の根元に葬ったとあります。僧には自身の秘蔵の名馬「大夫黒」を与えたとあります。

この戦いは那須与一で有名な場面なのですが、吾妻鏡にはその記載はありません。

兄者「OK、平家のブラクラゲット(討ち死)」

弟者「流石だよな俺ら」

頼朝に悪口を言われる弟者忠信

弟者忠信は継信が討ち取られても義経に従い続けたようです。

平家を討ち取った後の元暦2年4月15日には、無断任官で頼朝に文句を言われる武士の一人に名前があがっています。

頼朝が23人の武士に悪口を書いているんですけど、なぜか吾妻鏡はわざわざそんな話を載せています。

忠信に関しては、秀衡の郎党の分際で衛府になるなんてありえない、おまえはイタチよりも下だと罵っています。

 兵衛尉忠信、〈秀衡之郎等、令拝任衛府事、自徃昔未有、計涯分、被坐ヨカシ、其気ニテヤラン、是ハイタチニ、ヲヅル〉

吾妻鏡 元暦2年4月15日 抜粋

この悪口は全員分読むとちょっと面白いです。

よく見てるな、頼朝。さすが意識高い。

きっと勝手に官位をもらうなんて夢中で生きてない証拠だと思っちゃったんでしょうね(偏見)。

土左房襲撃と都落ちの弟者忠信

次に吾妻鏡で弟者忠信が出てくるのは、文治元年(1185)10月17日に、土左房昌俊の六条室町邸襲撃時です。

この時、義経の家人の多くは遊びに出ていたため少数だったが、義経は忠信らを率いて戦ったとあります。少し経つと行家も援軍に来て共に防戦したとあります。

昌俊は逃げていき、家人たちが行方を探したとあります。

十七日 丙寅 土左房昌俊、先日依含関東厳命、相具水尾谷十郎已下六十余騎軍士、襲伊予大夫判官義経六条室町亭。于時、予州方壮士等、逍遥西河辺之間、所残留之家人、雖不幾、相具左藤四郎兵衛尉忠信等。自開門戸、懸出責戦。行家、伝聞此事、自後面来加、相共防戦。仍小時、昌俊退散。予州家人等、走散求之。予州、則馳参 仙洞、奏無為之由〈云云〉。

吾妻鏡 文治元年10月17日

義経はこれを受けて院から頼朝追討の宣旨を受け取りますが、兵が集まらず、西海に落ち延びようとして失敗します。

落ち延びる際の200騎の中に、弟者忠信がいます。FUMIのグループにいた伊勢さんや弁慶も名前がありますね。

三日 壬午 前備前守行家、〈桜威甲〉伊予守義経、〈赤地錦直垂、萠黄威甲、〉等赴西海。先進使者於 仙洞、申云、為遁鎌倉譴責、零落鎮西。最期雖可参拝、行粧異体之間、已以首途〈云云〉。前中将時実侍従良成、〈義経母弟、一条大蔵卿長成男、〉伊豆右衛門尉有綱、堀弥太郎景光、佐藤四郎兵衛尉忠信伊勢三郎能盛、片岡八郎弘経、弁慶法師、已下、彼此之勢、二百騎歟〈云云〉。

吾妻鏡 文治元年 11月3日

結局西海には逃げられず、義経郎党は散り散りになってしまいます。

この後の忠信の記述はかなり先まで飛びます。後日の記述を見る限り、義経の逃避行に付き従っていたようです。

やってしまった弟者忠信

義経の逃避行に付き従っていた忠信ですが、文治2年(1186)の9月あたり(時期は不明)で、宇治で義経と別れます。その後、どうもそのまま京に潜伏していたようです。

弟者忠信はここで致命的なミスをします。

昔密通していた、今は人妻の女性に、文を送ってしまうのです。

やってしまいましたなあ。

その女性は夫にその手紙を見せました。

夫はそれを頼朝の御家人糟屋有季に伝えます。

こうして、忠信に追手が迫ることになったのです。

その話は吾妻鏡 文治2年9月22日にあります。ちなみに玉葉では、死亡記事だけで詳細はないですが、9月20日になっています。

廿二日 乙丑 糟屋藤太有季、於京都、生虜与州家人堀弥太郎景光。〈此間隠住京都〉又於中御門東洞院、誅同家人忠信〈云々〉。有季、競到之処、忠信、本自依為精兵相戦、輙不被討取。然而以多勢、襲攻之間、忠信、并郎従二人自戮訖。是日来相従与州之処、去比自宇治辺、別離、帰洛中、尋徃日密通青女、遣一通書彼女以件書令見当時夫。其夫語有季之間、行向獲之〈云々〉。是鎮守府将軍、秀衡近親者也。予州、去治承四年、被参向関東之時、撰勇敢、差進継信等〈云々〉。

吾妻鏡 文治2年9月22日

糟屋有季は京に潜伏していた弟者忠信を見つけます。

京の中御門東洞院(中御門大路と東洞院大路の交わる辻付近。たぶん今は京都御苑内?)で忠信ならびに郎従二人と戦闘になります。

忠信は精兵だったため、簡単には討ち取れなかったが、多勢で襲い掛かったため、忠信と郎従二人は自害したとあります。

昔の女にメールしちゃったことが仇になってしまいました。

弟者「出すんじゃなかった」

おわりに

義経がアレな鶴ったらーなのが面白いですね。

今回はFUMIグループにいる佐藤兄弟のお話でしたが、最後に同じFUMIグループにいる伊勢義盛についても触れておきます。

彼も佐藤兄弟と同じく義経に付き従って戦います。吾妻鏡では、屋島、壇ノ浦、京への凱旋、義経の都落ちなどに名前があります。また、義経が腰越に留め置かれていた時にトラブルを起こす件も吾妻鏡にありますが、これも本当かどうかはわからないです。

そんな伊勢義盛ですが、実は彼も弟者忠信と同じ時期に亡くなっています。

伊勢義盛の最後については源平盛衰記に詳細がありますが、その記述は他の記録にはなく、真実かどうか不明です。

義経都を落ける時、義盛君の落ちつき給へらば急ぎ馳せ参るべしと様々契り申して、思ふ様ありとて暇を乞て、故郷伊勢国に下り、其時の守護人、首藤四郎を伺ひ討つ。国中の武士追かゝりければ、義盛鈴鹿山に逃げ籠りて戦ひけるが、敵は大勢なり、矢種射尽して自害して失せにけり。

 源平盛衰記 義経行家都を出づ並びに義経始終の有様の事

義経と別れた伊勢義盛は、故郷の伊勢に帰り、頼朝の御家人、山内経俊を狙いますが、返り討ちにあって鈴鹿山で自害したとあります。

上の経緯が正しいのかはわかりませんが、玉葉の文治2年(1186)7月25日には、一条能保から伊勢義盛が梟首されたことを伝えられています。

能保示送云、九郎義行郎徒、伊勢三郎丸梟首了云々

玉葉 文治2年7月25日 抜粋

義経のFUMIグループメンバーは、皆、なかなかに波乱万丈な人生でした。

弟者「流石だよな俺ら」


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