母を亡くす

(2022年10月17日にFacebookに投稿したものを、記録を兼ねてこちらにも投稿)


10月7日の夜に母が亡くなりました。

9月に97歳になっていたので、普通なら大往生と言われる年齢ですが、ひとり暮らしの自宅から火を出し、その中でのことでした。日中から冷たい雨が降り続けている日でしたが、古い木造モルタルの家は大変な勢いで燃え上がったようで、実家はあっという間に全焼しました。それでも消防の皆さんのおかげで(おそらく消防車20台は来ていたと思います)ご近所への延焼は最小限に抑えられ、ケガ人は出ませんでした。

ご存知の方も多いと思いますが、火事には事件性の疑いが付随するので、司法解剖して死因を特定しなければならず、遺体が本人であることの科学的な確認も必要で、それがはっきりするまで死亡証明書も無いので事務的な手続きも一切出来ず、宙ぶらりんな、苦しい数日間がありましたが、13日に司法解剖で死因は焼死と特定され、14日朝に歯型からの本人確認が出来て、遺体が警察から斎場に移され、夕方にようやく会うことが出来ました。納体袋に収められた状態でしたが、きれいな布団で休んでいました。

葬儀社や菩提寺との打ち合わせの他、警察と消防署それぞれでの調書作成と間取り図の作成、ご近所へのお詫びなど、イレギュラーな手続きがありましたが、今はそれらを終え、週末の葬儀まで、また宙ぶらりんな時間です。


何年か前にFBに書きましたが、母は90歳を過ぎて自分で介護サービスを申し込むような人で、最後まで補聴器も老眼鏡も使わず、年相応に物忘れは増えていましたが「その話はもう聞いたよ」と言えば「仕方ないね、耄碌ばあさんだから」と笑って答える明晰さを保っていて、その日の夕方に電話で話した時も元気でした。

火事の直後、近所の方から「大変だったね」と同時に「ひとり暮らしさせちゃダメだったんだよ」と言われ、そう考えるのが普通だろうとは思うものの、そこに後悔はありません。

ですから晩年は充分に子供孝行をしてくれましたが、初めて『ガラスの動物園』を観た時に、トムとローラに対してアマンダが妄信的に押し付けている“自分に出来たことは自分の子供は出来て当然”で“自分に出来なかったことも自分の子供なら出来るはず”という無意識を彼女の特性として実感し、「すべての母親はアマンダである」と得心したくらいには、長年、抑圧的な存在でした。理不尽なその人の言動を理性で捉え咀嚼するのは、私なりに時間をかけて取り組んできた課題でした。

母は結婚したのが35歳、私を産んだのが37歳で、60年前のその年齢はかなり珍しい高齢出産で(その3年後に弟を出産しましたが)、私は自分が友達より早く母親を失うことを強く意識して育ちました。それは見た目の問題もありましたが、幼い頃からずっと「お母さんは早く死んじゃうんだからね」「親孝行したい時には親はいないものなんだよ」と言われ続けてきたことが主な要因です。ちなみに父は母より8歳年下で、同級生のお父さん達と変わらない年齢でした。

つまり私は、人より長く多く、母親が亡くなるシミュレーションをしてきたはずで、しかも母の年齢を考えればいつそれが来ても不思議ではなかったはずが、あまりの唐突さに、覚悟を上回る喪失感に襲われています。この何年かは電話で話すことを日課にしていたので、目安にしていた18時前後になると体が反応します。買い物に行けば、「今度はこれを送ろうか」「これなら気に入るだろうか」という考えがまだ反射的に浮かびます。「後悔のないよう、出来ることはしておきたい」と考えてきた数十年の習慣(もちろん出来なかったことはたくさんあります)が、対象を失って空回りしているようです。

今回、最も苦しかった(苦しい)のは、長年保たれてきた「ひとり暮らしする母」「それを守ってくれている亡き父」「自分」のトライアングルという“私の宗教”が崩れてしまったことでした。それを言葉に出来るようになったのは、ついさっきです。おそらくこの先、無宗教で生きていくことは難しく、自分の物語を立て直す必要があるのだと思います。これもまた、ひとつの還暦の形なのかもと、今は感じます。

実家は本当に何もかも燃えてしまったのですが、例えば写真や古い仕事の切り抜きなど、失ったものに対する執着は不思議とありません。保険や銀行関係の手続きを考えると、とても憂鬱ですが。


火事について少し書き記しておきます。22時過ぎに都内で電話を受け、横浜市の山奥にある実家に着いたのは23時近くで、その前にほぼ鎮火と報告を受けていましたが、火災の規模が大きかったからか、どの火事もそうなのか、種火のようなものがくすぶっていて再燃する可能性があるとのことで消火活動は入念で、母の遺体が運び出されたのは午前1時でした。

現場はとにかく動いていて、消火活動の最中から、母の身長や体重、自分の名前といった質問に答える他、部屋の見取り図を描いたり、暖房器具や仏壇の位置を聞かれたり、「こんな形の器具が見つかったけれど何だかわかりますか?」と質問されたり、その場で出来ることはどんどん進めて行く流れを感じました。質問だけでなく、翌日以降の説明も現地で受けました。このあたりで私は「ここには消防と警察の人達がいて、ふたつの流れがあるらしい」と気付きます。おそらく全く違う作業が行われ、でも交わるポイントもあり、両者が効率良く作業できるシステムが出来ているという印象でした。振り返って考えると、翌日以降の説明をしていたのは警察で、消防はとにかくその場(火災現場)に責任を持つという感じで、驚いたのは、前記の種火に対する警備で、当日と翌日の2日間、消防士の方3人が現場に居続ける決まりがあるそうで、そのためにホースが1本、水栓から実家までつながれたまま残されていました。

もうひとつ驚いたのは、消防か警察か覚えていないですが、引き上げる最後のほうで「死者が出て延焼もあるのでコーホーしますがご了承ください」と言われた時で、コーホー=広報=報道の素材として提供する、という意味を理解するのに時間がかかりました。

翌日8日の朝から現場で実況見分に立ち会い、そのあと警察署でDNA鑑定のための唾液採取、調書のための供述と間取り図の作成をしましたが、そこで話をする中で母が歯科医にかかっていたことを思い出し、お世話になっていた介護サービスに電話して歯科医を調べてもらい、やはり連休明けに警察から連絡してもらうことになりました。

消防署での調書作成は15日で、ここでも間取り図を描いたので、計3回、実家の間取り図を描いたことになります。罹災証明の発行も消防署が管轄で、また、「火災の被害を受けられた方へ」という冊子がもらえたのですが、公的な救済・支援制度の案内が書かれていたり、自宅が半焼した人に支給される援護物資の案内が記載されていて、被災者にとってかなり実用的な内容です。救援物資バッグの中に「ノート、シャープペン、ボールペン、消しゴム」が入っていて、災害に見舞われた時、記録しておきたいのが人間の常なのかもしれない、と思いました。この文章もそうした本能に突き動かされたものに違いありません。


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