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掬われた日のこと/ユリイカ

私の始まりのときのことははっきりと覚えている。

それ以前、私は海だった。濃紺で、緩く固まったゼラチン状の深く広い海だった。そこに注ぐのは源を辿れない柔らかい光で、水色の広い天井に時折流れてくる朧雲が温い雨粒を落とすと、海面はとろとろと揺れた。雲が消えると、天井に亀裂が走り、そこから大きな腕が伸びてくる。腕は無遠慮に海に触れ、海を切り取って亀裂の中に帰っていく。

始まりのとき、やはり雨上がりに数本の腕がやってきた。私を切り取った腕はよく磨かれたスプーンを持っていて、不器用な手つきで山盛り一匙分ゼラチンの海を掬い上げた。その腕は震えていた。その振動で少し掬った海が零れ、海面に落ちた。その喪失で私は私をはっきりと意識することになった。私はその失ったものがなんだったか、私にとってどれほど重要なものであったか思い出すこともできないけれど、私は何かが決定的に不足している存在だということを認識した。私を掬った腕が、スプーンに私を載せて亀裂に還るとき、同じように亀裂から伸びる腕が見えた。爪を赤く装飾した白い腕はスプーンを忘れてしまったのか素手で必死に海を掬っていた。断面が乱れている。海はとろりと揺れ、歪な断面を飲み込んでしまったが、赤い爪の腕が救った海は掌の上で、柔らかな光を乱反射している。さらに遠いところの腕はナイフで丁寧に切り取った四角の海を器用に乗せ慎重に亀裂へ帰ろうとしていた。私を掬った腕は震えながら亀裂まで私を運ぶことができた。亀裂の中はまったくの闇だった。ファスナーをゆっくりと上げるように亀裂が閉じていく。完全な闇に飲まれる前に、ピシャンと何かが落ちる音がした。ナイフの腕が、海を落としてしまったのだろう。落ちてしまった海はまたとろとろの大海原に還ったのだ。それだけのこと。温い闇の中で私はいつの間にか眠ってしまった。

私はこのようにして始まった。大きな大きなゼラチンの大海原から、スプーンを持った生真面目な腕に掬われて始まった。震える腕が落としてしまった何かを失った生まれてきた。もうあの始まりから30年近くになる。いつでもその失った何かを探している感覚があって、今も満員電車で私の遺失物を飲み込んで生まれた存在がいるのではないかと考えている。そうだな、あの赤い爪の腕はとても近いところで海を掬って、かき集めていたし、あそこに私の落とし物が紛れ込んでいる可能性は高いだろうな。

身体が大きく揺れた。電車が緊急停車したようだ。その衝撃で隣に立っていた学生が私にぶつかった。艶のある黒髪を胸のあたりまで伸ばしている。すみませんと、小さな声でつぶやき、少し怯えた表情で私を見た。目が合った。白い肌が彼女の瞳の黒を際立たせている。彼女は持参のランチバッグを落としてしまっていたので、それを拾い、彼女に手渡す。それを受け取る彼女の爪は、赤い色に丁寧に塗られていた。化粧っけのない彼女に不釣り合いなそれを見て肌が粟立つのがわかった。

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