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vol.124 カズオ・イシグロ「クララとお日さま」を読んで(土屋政雄訳)

AIと人間の関わり合いを通じて、人間たらしめる条件はなんだろうかと考えさせられた。

昨年出たばかりの作品なので、ネタバレに注意しながら書く。

AF(Artificial Friends:人工親友?)と呼ばれる人工知能を搭載した人型ロボットのクララは、他の新型AFといっしょに店頭に並べられていた。ある日、お店にやってきた病弱の少女ジョジーは、一目でこのクララとの好相性を感じた。母親のクリシーも、このAFなら娘ジョジーの役に立つと思い、買い取ってともに暮らす。やがて、クララとジョジーは互いを思いやりながら友情を育んでゆく。ある日クララは、なぜ自分が病弱のジョジーの家に買われたのか、その本当の役割と目的を知る・・・。

物語はいくつかのテーマが練り込まれていた。特に、科学の進歩で人間の評価基準が変わり、その結果、格差社会や環境破壊が進んでしまう描写が印象的だった。やがて人間の心は荒んでいく。「これでいいのか現代は?」という著者の問題提起を感じた。

今、本を閉じて思う。

「便利さ」ばかりを求める社会がある。求めた「便利さ」は、人間の心を本当に豊かにするのだろうかと疑問を感じる自分もいる。伸ばすべき科学と留まってほしい科学の領域があるようにも思う。

この小説の発表に際し、カズオ・イシグロが語る日経のインタビューがあった。

語り口から作品に込めた想いの深さが伝わる。

人間の頭にあるデータの書き換えだけで、もう1人の人間になんかなれっこない。仮に違いがわからないものができたとしても、それは人間って呼べるのだろうか。

僕は近代文学から人間の心の複雑さを学んだ。その複雑さが人間の面白さなのだ。人間の心のずっと奥の方にある難解で複雑に響き合う感情は、複製などできそうもない。倫理的な問題もある。

また関連する角度から、「科学が格差社会を生み出しているのではないか」という問いもあった。

作品の中で、子どもたちは、「向上処置」という遺伝子操作のようなもので、優劣がつけられていた。「処置ずみ」の子どもじゃないと一流大学には入れない。奇妙な不平等の中で、大人も子どももどこか寂しさや孤独を抱えていた。ロボットまでもが、新型、旧型の競争の中にいた。社会が残酷な能力主義に染まっていた。環境が破壊されて「お日さま」が怒っている状態もあった。なかなかディープな世界だ。

輪をかけるように、東大TVに「能力を人間にダウンロードする時代になる」というタイトルで、東大教授がさも得意そうに近未来を雑談していた。

研究者の妄想のような雑談に感じた。

最後、クララも能力主義の中で需要が終わり、思い出の中に生きていた。

仮に、AFのようなロボットの時代が来るのなら、僕はドラえもんのようなロボットを求めたい。少し「おちょけ」だけど、人間に努力を促しながらも夢を叶えてくれそう。「だいじょうぶ。未来は元気だよ」と伝えてほしい。

おわり

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