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vol.80 テネシー・ウィリアムズ「欲望という名の電車」を読んで(小田島雄志訳)

アメリカを代表する劇作家が描いた戯曲。1947年ブロードウェイ初演、ピューリッツァー賞受賞の近代演劇史上不朽の名作。そんな新潮の紹介があった。

自粛の閉じこもりを利用して一気に読んだ。YouTube上の「A Streetcar Named Desire」の舞台も観た。英語版だったが、ずっと惹きつけられたまま2時間楽しめた。

以前から、『欲望という名の電車』というタイトルが気になっていた。初めて読んで、自分の経験も重ねて、こんなことを考えた。

社会環境の変化に適応できない不器用なままの自分がいる。不器用なままだと、価値観の違う相手とコミュニケーションが取れない。相手もまた一方的な価値を強圧的に押し付けてくる。押し付けあった価値感からあつれきが生じる。生じたあつれきは憎しみとなる。到底共生などできない。その結果、勝手気ままに勝者と敗者に分断し、排除してしまう。それは人間としてとても愚かな行為だと思う。

その価値はどこから来るのか、互いの背景に思いを巡らせないといけない。それぞれに、育った環境がある。生まれ持った内面がある。触れてきた文化もある。なによりも時々の心情がある。そこを理解しようと努力する人はやはり魅力的に感じる。

この作品はそれぞれの価値の違いを鮮明にしながら、没落していく南部上流社会にとどまった人間の苦悩を描いていると思った。

黒人の労働力と犠牲の上に成り立っている上流社会に、すがって生きていきた姉ブランチがいる。あっさりと上流社会を捨てて、粗野で教養のない動物的なスタンリーと結婚して、貧しくても躍動的に生きている妹ステラがいる。ふたりは、育った環境は同じでもその人間性は全く違っていた。

さらにこの作品を魅力的にしているのが、ステラの夫スタンリーとブランチの対比だ。

スタンリーは、汗まみれで現実の世界で荒々しくいきている北部の工業化社会の人間。ブランチは、シャワーを浴びて、フランス風の白いドレスに着替える優雅な貴族階級にこだわる人間。男女の差以上に、その生き方は大きく違う。対面したふたりは、相手を受け入る気配もなく対立する。その様は全く不寛容で、勝者と敗者に分けるために言い争う。

僕はブランチのこころを想像する。内面の葛藤に苦悩しているブランチのこころを推察することが、この作品の肝だと感じた。

彼女の苦悩の深さを思う。誰からも救いの手が差し出されない寂しさがある。自分で解決するしかないと感じている内面の問題を、他者に援助を求め続けてしまういらだちがある。精神を病んで、医者に連行されるシーンでさえも、彼女の苦悩は何も解消できていない。

しかし到底彼女を責める気にはなれない。それは、状況が変わってしまったことはわかっていても、過去の自分に縛られて、現状に適応できないでもがき苦しむ経験があるからだと思う。

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同性愛者を公言している著者のウィリアムズは「ブランチはわたしだ」と語っている。他者と相容れない苦悩をこの作品に込めたのだと思った。

家に閉じこもっていたら、とてもいい時間が持てた。

おわり

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