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vol.116 向田邦子「思い出トランプ」を読んで

ポンポンと歯切れのいい言葉が映像になる。感覚の表現や感情の言葉にも共感する。懐かしい風景にうなずく。昭和のブラウン管が浮かぶ。オノマトペが軽妙で、音までが聞こえてきそう。100年前のまどろっこしい文章ばかりを読んでいたので、ポンポンとした文章が心地いい。

「顔の幅だけふすまがあいて、厚子が顔を出した。20年前と同じ笑い顔だった。指でつまんだような小さな鼻は、笑うと上を向いた。離れている目はますます離れて、おどけてみえた。何かに似ている。こういうとき、頭の中の地虫は、じじ、じじ、と鳴くのである。・・・何かに似ていると思ったのは、かわうそだった。」(「かわうそ」より抜粋)

もう、軽妙な「ホームドラマ」が浮かんでくる。

YouTubeにあった約50年前の「寺内貫太郎一家 第一話」を見た。当時の演出に馴染めなかった。わざとくて、軽薄すぎて、お気軽な娯楽を最後まで見れなかった。もう硬くなった頭は戻りそうもない。

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当時のテレビドラマは、深く考えずに楽しむことばかりが求められていたのかもしれない。それでも、怒りっぽいが家族愛のある小林亜星の存在感と、体からにじみ出るユーモラスな樹木希林の愉快さは、さすがだと思った。

一方この「思い出トランプ」に収められた13の短編は、どこかシリアスな家族の側面がある。それが面白い。どれも、壮年期に差し掛かった男女が登場する。それなりに人生経験を積んで、酢いも甘いも知っている世代。初老を迎える夫婦の心情が悲しくておかしくて、人生の秋風を巧みに受け流している姿がなんだか心地いい。

「家族」や「夫婦」について思ってみた。

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家族って個人を制約する一面があると思う。互いを干渉しあったり、それがわずらわしくなったりも当然ある。「思い出トランプ」の家族も、違う性質の集まりで、自分と自分以外がともに暮らしている。そんな中で、適度なところで折り合いをつけながら生活をしている。そこの描写に深みを感じた。さすがだと思う。

「かわうそ」のような残忍な妻をぐっとこらえる宅次、「犬小屋」を作った魚くさいカッちゃんと必死で距離を取る達子、「花の名前」を教わり得意げになる夫の言葉をぐっと呑み込む常子、どれも微妙な距離感の中で過ごしている。

読み終わって本を閉じて家族のいた風景を思い出す。

おわり

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