怒りのデスロード

私はもう、完全に怒りの感情にのまれてる。
もう、1ヶ月くらいになる。そうじゃないフリもできるけど、結局のところ、怒っている。

同僚や後輩に頑張ってていてほしいし、期待されないのは、さびしい。だから私は期待してるフリをしてるが、私がガッカリしてしまい、私が怒ってしまわないようにするため、結局は期待しないようにしている。最後まで希望はあるといい続けながら、内心は「期待してない」「人は人」と思っている(ことにしている)。もちろん、期待は本当はしている。でも、それでは優しくありつづけるのがつらくなる。傷つく。期待しなければいい。大いに諦めてるんだ。

会社だけじゃない、みんなそう。私が言いたいのは、そんな痴話で愚痴な話じゃなく、もっと内向的な「我々」が悩んでそうな、苦しみの話なんだ。こういう気持ちが自分だけなんて、思いたくない。

やめてほしいことはやめてといいつつ、許す許さないとかではなく、ただ理解し、やめなくちゃいけないことはやめ、よくあろうとして、色々な人と話しつつも、人に期待せず、自分を肯定も否定もせず。ハーバードビジネスレビューにあるようなことは一通り意識してるし、これをやってのけてバランスを手に入れられれば大いに飛躍できるのは、わかる。それでも、大いに怒りに飲み込まれている。

みんな勝手にどこかいったり、いきなり休んだり、結婚したり、イベント行ったり。僕はよくわからん。努力するために、遊んだり、好きなことをする。理解は出来る、共感できない。もはや私には多くのことがダブルスタンダードになってしまっている。理不尽で、甲斐がない。

意味や理由なんてない。ただそうなだけで、彼らに悪意なんてない。そこまでみんな考えなんてない。でも僕は感じる。それこそが、問題じゃない?別に私も屑な行動をしてしまうことがあるだろう。でもみんな、考えてない。そこには共感も、尊重もない。

毎日のように夜遅くまで相談をされ、共感をもとめられる。マーケティング的な仕事をしているときは、むしろ共感を「させ」なくちゃいけない。私たちは心に生きている。そんな毎日。私が彼ら彼女らを共感と理解ができたと思えば、まさにつかの間、実に酷いコトをされる。裏切られる。私にしてみれば、そこに尊重はない。客観的には、ただただ私が誤解してるだけなのだろう。私も酷いことをしてきたのだろう。酷い奴を理解し共感をして、いつかそんな奴も変わるかもと思っても、変わることはない。理不尽。そんな相手に自分や、自分の未来をみている。これが、いい気もちな訳がない。

私は成長していたい。変わりたい。1人で出来ることなどたかがしれてる。僕は多くの人と、多くのことをなしたい。それが出来ないことが多いのはとてもフラストレーションだし、悲しい、とても孤独で、憤る。「自分は変えられても、人は変わらない」だって?そうなんだろうけど、そんなさびしい話を、そのまんま、受け入れてしまって、本当にいいの?なにか、まだ出来ることはあるんじゃないか?そういうスタンスこそが、自分をも変えることになるんじゃないか。

私は、本当にそういう話をしていたい。考えていたい。藻掻いてでも手に入れる。めんどくさいけど、とても大事なことだと私は思う。大事にしていたい。

私はまがい物では満足できない。欲しくないものなど、いらないし、大事なことだけが、大事。私は、本当のものでいたい。ニセモノでも満足できる人を私は理解はできる。共感はできない。私はただ、目の前にある素敵なものをすてきだといって、目の前にないものをずっと、ずっと探していたい。多くのことを大いに諦めても、諦めきるつもりはない。屈しない。こういう気持ちに少しでも近い気持ちをわかる人達と、私はこの道を進んでいきたい。進んでいると信じたい。私たちは大いに孤独でも、私たちは信じている。きっと。

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