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短編小説「虫歯」


「いやだ、歯医者には絶対行きたくないんです」和室の座椅子に座り、そう話す男性だって〝行きたくないから行かない〟そんな道理が通じるわけがないことは十分理解していた。二週間ほど前から奥歯に違和感があった。しかし、想像してしまう。普段口に入ることはない、温もりを一切感じないい機材が歯を削る。あの独特の高音が口の中から頭に響くことを想像すると、やはり歯医者に行く勇気は湧いてこなかった。



「ダメです。必ず行きますよ。準備しなさい」男性に対面し正座をする女性が端的に話す。男性の食事中の不審な食べ方を見て問いただしたところ、どうやら虫歯のようだとわかった。それからかれこれ三十分はこうしているが、女性は姿勢を崩さない。男性から目を離した隙に風船のようにどこかへ逃げることを女性は理解していた。それがわかる位の信頼関係が両者にはあった。



 両者はにらみ合い沈黙が続いた。しばらくすると沈黙から逃げるように男性が提案をした。「どうしても歯医者には行きたくないんです。もし行かなくていいなら、私今日からダイエットします」男性が上着の上から自分のふくよかなお腹をさする。「ダメです。歯医者には絶対行きます」女性は先ほどより語調が少しばかり強くなった。



「本当に行きたくないんですよ。それに反省してます。そうだ、虫歯になった反省に髪もバリカンで剃って坊主にします。だから歯医者だけは……」「ふざけたことばかり言わない。歯医者には行ってもらいます」



 再び沈黙の時が流れた。そして意を決したように男性が、「これならどうですか?実は私、お昼を食べてからお昼寝をしているんですが、その時間を部屋の掃除や雑用をこなす時間に充て——」「もう馬鹿話はやめなさい。そんなことしても、結局嫌な物二つから逃げられるだけじゃないですか。そんなこと言うもんじゃありません。時間稼ぎしてるのはわかってますからね。これ以上私の手を煩わせるなら付き人の数を増やしますよ」



 言葉を遮る女性の言葉に男性もいよいよ重い腰をあげた。わかりました。とつぶやき右手で頭の丁髷を少し触った。両国国技館ではあんなに立派に映える大銀杏まで泣き出しそうに女性には見えた。


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