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泳ぎ方を知っている

海にはあまり縁のない人生だと思う。
生まれ育った埼玉県には海がないし、今住む越後妻有は山間部だ。新潟県に海はあっても全ての街が面しているわけではない。子どもの頃から川に愛着があるのは、培われた県民性だろうか。だからか川にはときめいても、海にはそこまで惹かれない。特別に海に行きたい、と今まで感じてこなかった。なので物心ついた時から習っていて育成コースまでやり切った水泳を、活かせたことは殆どない。海は泳いでも川は泳がないし。


3泊4日で、奥能登国際芸術祭に行った。
日本海に突き出る能登半島の最先端には、視界からはみ出るほどの水平線が広がっていて、岸壁を特有の荒波が打ち付けていた。見知らぬ土地の風景は、まだ見ぬ先の将来に似た漠然とした不安を感じさせる。それでも、「泳ぎ方を知っている」という一つの根拠のない自信によって、私はけっこうどっしりとした気持ちで海を眺めていた。
もちろん、波のない屋内のプールと次から次へとうねる白波ではわけが違う。四方を囲まれていないし、25mのコースもない。ただただ無限に繋がる深さと広さが海にはあるし、波はなかなかの轟音を響かせていた。それでも、たった一つ知っていることがあるだけで大丈夫な気がするのだ。不思議だ。


珠洲市内をいくつかのエリアに分けて展開される芸術祭には、妻有に似た山間の(海が絶対近くに無さそうな)エリアもあれば、あの岸壁でかつて船越英一郎は犯人を追い詰めていたんじゃないかと邪推をしてしまうほどの岩肌と日本海を一望できるエリアもあって、247.20㎢は小さくてとても大きな世界だった。

アレクサンドル・ポノマリョフ「TENGAI」


半年ほど前に震災があったなんて想像できないくらいに、土日祝日平日問わず沢山の人が作品を巡っていて、案内をする地元のお母さんお父さんはハツラツとしていた。それでもふと見上げた民家の瓦が海とは違ったブルーのシートで覆われていたり、わずかな揺れがあったり、少しの隙間に現実が存在していた。
けれども、作品を観て語る瞬間や美しい景色が目の前に広がる瞬間には、感動以外の感情はなくて、そういう一瞬がそこでの生活に生まれ得るかもしれない可能性があるというのは、ある種の尊さなのかもしれない。同じ感動が人を呼び、さまざまな人が最涯の地を目指して来ることには、ちょっとした浪漫も感じる。

ファイグ・アフメッド「自身への扉」
アナ・ラウラ・アラエズ 「太古の響き」
N.S.ハーシャ「なぜここにいるのだろう」
シリン・アベディニラッド「流転」
吉野央子 「回遊の果て 」
マリア・フェルナンダ・カルドーゾ
「種のタイムカプセル」

そんなこと(割といろんなこと)を思いながら、差し出されたパスポートにスタンプを押して(※)、知らない街をさも知るかのようにガイドブックの知識を披露する四日間はあっという間に終わった。気づいたら終わっている、というのは、きっと夢中になっていた証だろう。

泳ぎ方を知っている根拠のない自信と、知らない場所を楽しむ心。それらは歳を重ねたり経験を積むほど自分の中から少しずつ消えていく。そういうものを思い出したい、と探していた、この20代後半の何とも悩ましい時季に私は珠洲に来れてよかった。
奥能登にこの海に、また来れますように。

吹き荒れる海風で曲がる木々。
妻有の根曲り杉を思い出す。
天使の梯子がかかったAM7:00の空模様
スズ・シアター・ミュージアムのある丘から見える景色
20代後半の悩ましい私

※仕事で行ったので、スズサポ(現地の運営ボランティア)の一人として作品の受付をしていました。

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