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またなのか、まだなのか

7/30(日)に行われた試合で、2年ぶりにリーグ戦に出場しました。前十字靭帯の再断裂からは756日ぶり、最初の断裂が2020年なので、おおよそ1200日くらいリハビリをしていた計算です。

そんな復帰戦から2週間後の昨日、トレーニング中に負傷しました。
脛腓靭帯損傷の捻挫で、おそらく残りのリーグ戦が厳しくなってしまいました。
11月の新潟日報杯という県内の大会での復帰が次の目標です。
痛い思いをしてまでも「まだやろう」という物事への執着心というか諦めきれない気持ちが生活の中にあることは貴重だな、と怪我をする度に思います。きっとサッカー以外では、そういう感情を得られないので。

それなりに長くかかった復帰までの日々では、チームのために出来ることを考えていましたが、復帰後は個人について考える時間を意図的に増やしていました。この間はチームのために何かをする姿勢を周りに示すことができたと自負していたので、少し自分に我儘になってみても良いのかもしれないと、プレーできるからこそ出せる我があるのでは?と試していました。
"チームの中の個人"と、"自分目線での個人"を切り離していたのですが、ここにきて実は違っていたのかもしれないと思い始めたので、頭の中を少し文字に起こしてみます。

団体競技では、チームの勝利が最優先事項なので、自分に与えられた役割をこなすことが重要です。試合に出られるとき、出られないとき、場合によって異なりますが、必ず役割があります。戦術を理解してチームを勝利に導く、チームの勝利に向かうメンバーをサポートする…わかりやすいところで言えば、大きく分けてこの2つがあります。
その土台として、「個人としてどう在りたいか」という気持ちや目標設定が、トレーニングや試合に臨むモチベーションに繋がります。自分自身との向き合い方も変えていくでしょう。
戦術を理解しない上では試合には絡めないため、自然と身体的なアプローチだけではなく、頭での理解や思考のインプット/アウトプットをすることになります。
このような流れを踏まえた上で考えると、"チームの中の個人"という立場(役割)を支えるために、"自分目線での個人"があるのだと思います。
なので、先に書いたプレーできるからこそ出せる我の模索は、その流れなしには成立しないのです。
自分の場合は、その流れの認識の手前でもがいていました。自分がコンディションを上げてもチームにフィットできなかった原因がここにある気がしてきました。故に、違っていたのかもしれません。

上記のように、プレーでチームに貢献するためには個の成長が求められます。一方で、プレーで関われない場合には、"チームの中の個人"として与えられた役割が折れそうな心を支え、"自分目線での個人"を補う意義になるように、両者は繋がっています。
全員が全員ではないかと思いますが、他者から求められることは自分自身の存在意義の確認になります。
自分のように怪我が多い選手でも、チームのためにできることをこなすことで、選手としての価値に迷ったとしても、チームの一員としての価値を見出すことができます。
ビデオ係でも、キャラクターを活かした鼓舞とか…、何かしら役に立てている実感を持つことで救われるのです。

長くなってしまいましたが、"チームの中の個人"と"自分目線の個人"は相互関係にあり、切り離せるものではなかった、というのが直近の気づきでした。

とはいえ、感情がある以上はそう綺麗に割り切れるものでもなく、怪我してうまくいかない自分に悔しくなったり、調子の良いチームに嫉妬したりします。複雑な感情と、割り切りたい思いへのマインドセットやアプローチは難しいのです。
ですが、だからこそチームで追いかける目標や得られた結果には、葛藤の分だけ達成感や感慨深いものがあり、個人では辿り着けない感動があるのです。
観る側へは、時としてエンタメ的な魅力を与えるのでしょう。

昨年まではどちらかというと"チームの中の個人"に重きを置いていた(それしかできなかったし、その意義を支えにしてきた)ので、今年は"自分目線での個人"として、「何がしたいか?」を見つめてきました。試合に出たい、は願うだけじゃ叶わないので、食事や生活、メンタル的なところを自分なりに因数分解して過ごしてきました。

結果的に、先日のリーグ戦に出場することができましたが、中身が伴った感触はなく、まだまだだったんだなあというさっぱりした実感が残りました。
①怪我→リハビリ
②リハビリ→トレーニング
③トレーニング→試合
と、だんだんと出来ることが増えるにつれて目標が変わる中で、自分自身に対して求めるものも自ずと大きくなっていきました。初期設定である「リーグ戦出場」では満ち足りなくなり、「より善いプレー」をとの思いが芽生えたことが味気のない後味を生んだように思いました。向上心という欲が働いたのでしょう。

怪我ひとつにも自分なりの考察があり、その考え方にも経年で変化があります。
その変化を蓄えていくことで、年輪のようなものが出来上がり、心の幹が太くなるのかもしれません。

怪我をすると自分と向き合う時間が増えるので、現状と内面の現在地に気づけたりします。
全く思わないわけではないですが、「怪我しなければ」よりも「怪我したこそ」と思えることのほうが今のところ多いので、そう捉えられているのかもしれません。そう思える環境あってこそでもあります。

くどいですね。笑
またなのか、まだなのか…頑張ります!!

#エッセイ #地方移住
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