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礼儀正しくレスバトルをする人々【雑記】

Xでレスバトルを見かけない日はない。クソリプが来て、クソリプを返す。揚げ足を取り合い、矛盾や事実誤認を見つけては嬉々としてバカにする。そして、最終的にはレッテルを貼り、人格攻撃をする。

しかし、改めて考えれば不思議なことが起きている。こんな人々が日本の人口の多数派なのであれば、そこら中で殴り合い、貶し合いの喧嘩が起きていなければ辻褄が合わない。せめて一日に一回くらいは見かけても不思議ではない。

ところがそうではない。人々は視線が合うたびにレスバトルを仕掛けるポケモントレーナーのように振る舞うことなく、ライターを貸し合い、後ろに並ぶ観光客のために写真を撮り、飛んできたボールを投げ返すのである。見ず知らずの人々が集う立ち飲み屋やライブ会場、ビジネス交流会、保護者会に行っても、礼儀正しく挨拶をし、和気藹々と世間話をする。X上でクソリプを投げ合うアカウントはイーロンマスクが用意したAIなのではないかと疑ってしまうほどである。

ではなぜこんなことが起きるのか? 「リアルでは政治と宗教の話をしないから」と簡単に結論づけることはできない。飲み屋で知らないおっさんと政治について語り合っているとき、仮に意見が異なっていたとしても、たいていは相手の言葉を一度は理解しようと努力するはずだ。間違っても、相手が基本的な常識すら欠いた知能障害呼ばわりして、耳すら貸さないようなことはないだろう(そのように振る舞う人はゼロではないが、僕の体感としては稀である)。

ではなぜか? 結論から言おう。人間は空気を読む優しい生き物だからだと僕は考える。正確に言えば、空気を読み、その場の雰囲気を保ちたいという人々の期待に応えることを欲望するのだと考える。

リアルの場では、礼儀正しい人物像が溢れかえっている。人はそれを見て、「人間はゴミではない」という共通認識を内面化し、その場に合ったマナーに則って振る舞う。

一方でX(あるいはYouTubeのコメント欄やその他のネット掲示板)では貶し合いながらマウントを取る人々が多く存在している。だからこそ人は「人間は基本的にゴミであり、放っておいたならそこら中でトラブルが起きることは避けられない」という共通認識を内面化し、しっかりマナーを守って罵り合うのである。

先日取り上げた動画のコメント欄では、「人間はゴミである」という動画主のコメントに賛同するコメントで溢れかえり、誰もそこに異論を唱えることなく、極めて平和的な雰囲気が保たれていた。

この状況自体が、人間がゴミではなく、心優しく、相手の気持ちを察する存在であるという証左のように感じていたが、誰もそのような指摘を行うことはない。誰もそんな空気の読めないことはしないのだ。おそらく、それだけ空気を読むことに長けた彼らは、日常生活でも「人間はゴミではない」という空気を読み取って適切に振る舞っていることだろう。

リアルでは猫をかぶっている分、実際のドロドロした性格がX上に現れているだけだ」と考えたくなる人もいるだろう。しかし、僕はそうは思わない。リアルでも、Xでも、人は常に空気を読んでいると考えるべきではないだろうか。普段、自分が礼儀正しく振る舞っているときを思い出して欲しい。目の前の相手に暴言を浴びせたいという欲望を、わなわなと震える手を握りしめて我慢しているわけではないはずだ(モンスタークレーマーやクソ上司を相手にするときなどは例外だが)。多少、猫を被ることはあるだろうが、礼儀正しく振る舞うことが、極めて自然な振る舞いであると感じないだろうか?

つまり、このように仮説を立てることができる。人はその場に求められる振る舞いを、極めて自然に欲望してしまう、と。強制されているとか、自分を偽っていると感じることもあれど、気づいたときにはその人格を内面化してしまうのだ。

たぶん、なんだかんだ人間は社会的で、優しい。少なくともXで言われるほどには、人間はゴミではないのだと思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!