見出し画像

『働かない勇気』(仮)

※Kindleでも読めます。


かつて1000年の都と謳われた古都から数十キロほどの森に、世界中の誰もが労働ぜずに自由に暮らせば幸せになれると説く哲学者が住んでいた。納得の行かない青年は、哲学者のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしていた。悩み多き彼の目には、世界は労働の運命に囚われた牢獄としか映らず、ましてや自由などありえなかった。

青年:
では、改めて質問します。労働なき世界は可能である、というのが先生のご自論なのですね?

哲人:
ええ。世界に労働は必要ありませんし、人生もまた同じです。

青年:
理想論としてではなく、現実の話として、そう主張されているのですか? つまりわたしやあなただけでなく、世界中のありとあらゆる人が労働する必要がないと。

哲人:
もちろんです。

青年:
いいでしょう。では、納得いくまで議論をさせてください。今日の目的は先生と存分に議論をして、その持論を撤回していただくことなのですから。

哲人:
ふふふ。

青年:
先生のことは風の噂で耳にしましてね。労働なき世界なるものを主張し続ける、一風変わった哲学者が住んでいる、と。労働なき世界とやらは、私にとっては不可解極まりないものです。そこで、実際に自分の目で哲学者の存在を確かめ、自分の耳でその謎めいた理論をお聞きし、おかしな点を存分に指摘して差し上げようと、ここにやってきました。ご迷惑でしょうか?

哲人:
いえ、大いに歓迎します。私自身もまだまだ発展途上の身です。あなたのように意欲ある若者の声を聞き、多くを学びたいと考えているのですから。

青年:
ありがとうございます。もちろん、私自身も先生の議論の隅々までを論破しようだなんて思っていません。先生の意見にも一抹の真実が含まれる可能性はありますから、価値観をフラットにして議論を進めたいと思います。

哲人:
ええ、よろしくお願いします。

青年:
まず初めにお聞きしたいのは、「労働なき世界が可能である」とは、いかなる意味なのか? という点です。私が推察するに、それは生まれたときから土地や有価証券を相続することが運命づけられている人や、倹約とめざとい投資でFIREを実践している人。宝くじが当たった人。YouTubeで趣味の動画を配信して運良く一発当てた人。あるいは天性の才能に恵まれた作家やアーティストやスポーツ選手などであれば、「労働」と呼ばれるような行為を行わずとも幸福に生きられるでしょう。
しかし、そのような幸運に恵まれる人というのは社会のほんの一握りに過ぎません。わたしたちは大人になるにつれて、自分には特別な才能がないことを自覚し、宝くじに当たるような豪運も持ち合わせていないことに気づきます。そして、来る日も来る日も労働に勤しまねばならない運命を受け入れることを強いられるのです。

哲人:
なるほど。おっしゃる通りです。

青年:
もちろん、生活保護を受けて働かないという道は存在するでしょう。しかしそのような場合も怠け者という誹りを免れません。それに、誰もが生活保護を受けて労働しないような事態になれば、社会が成立することはないでしょう。誰も食べ物を生産せず、家を建てず、子どもの面倒を見ることもなく、道路は荒れ放題。だからこそ、みなが歯を食いしばって労働しなければならないのです。それでもなお、あなたは労働なき世界が可能であると、おっしゃるのですか?

哲人:
ええ、私の意見は変わりません。労働なき世界は可能です。

青年:
なるほど、あなたの魂胆はなんとなく理解できましたよ。つまり、あなたはChatGPTで労働を自動化すればいい、とおっしゃるわけですね。確かに近年のAIの進歩はめざましく、街ではロボットを見かける機会が増えました。このままいけば近いうちに私たちの労働は100%代替される、というわけだ。
しかし、残念ながらAIやロボットを所有するのは金持ちや企業であり、私たちではありません。私たちはAIやロボットに仕事を奪われる前にAIやロボットにはできないクリエイティブな仕事、人間らしいおもてなしの心を生かした仕事に就くためにスキルを磨き、次世代の労働に備える必要があるのです。

哲人:
興味深い意見です。あなたは労働がなくなることを渇望しているのか、それとも恐れているのか、どちらなのでしょうか?

青年:
話を逸らすのはよしてください。私は願望ではなく、現実的な可能性の話をしているのです。今ある労働はAIやロボットに代替されるとしても、労働の運命自体から逃れることはできない。強欲な金持ちや企業は、AIやロボットによる利益を人々に分配することはないでしょう。それに、彼らは自動で富を生産する仕組みを整えたのだから、報酬を受け取る権利があります。それを大衆に分配するということは、今後、人類社会としてイノベーションを起こすチャンスをみすみす棒に振ることとなるでしょう。努力しても報われないのなら、一体誰がAIやロボットを開発するというのですか?

哲人:
どうやらあなたとは、労働とはなにか? 人間とはなにか? といったテーマからじっくりお話しする必要がありそうですね。

青年:
ほう。つまり、私が人間とはなにかを理解していないというわけですか? いいでしょう。誰もが目を背けて認めたがらない真実ですが、恐れずにタブーに踏み込んで見せましょうか。
人間とは怠惰で、強欲で、利己的で、できることなら労働を避けたい生き物です。だからこそ、過酷な労働をしなくても済むように努力した者や才能を持った者だけが幸福を得られます。努力することもできず、才能も持たない凡人は、歯を食いしばって労働し、余暇を娯楽で紛らわすことしかできない。まれに利他的な行動をとる者もいますが、あくまで自分の名声を高めて将来の利益を得ようとした打算的な行為に過ぎません。どれだけ綺麗事を言おうが、人間が悪魔であることは疑いようがないでしょう。

哲人:
こんな話があります。あなたの心の中には2匹のオオカミが住んでいて、常に戦っています。利己的なオオカミと利他的なオオカミです。そして、勝者は常にあなたが餌をやった方なのです。

青年:
ほう。つまり選択次第で人は利他的になれると、そうおっしゃるのですね。

哲人:
その通りです。しかし、人が利己的であるとか利他的であるとか、そのように考えること自体が無意味なのです。人間は本質的にどのような性質の欲望を持つか? ではなく、人間が持つ欲望の多様性に注目するのが「新しい労働哲学」なのです。

青年:
新しい労働哲学? なんですか、それは?

哲人:
まぁ焦らず、お座りください。なんせ人間について語り合うのですから、長い夜になります。暖かいコーヒーでも淹れましょう。


招かれるがまま青年は、森の奥にある小屋の中に入り、テーブルについた。彼は腕組みをしたまま、じっと哲人がコーヒーを沸かしているのを見つめている。労働なき世界だなんて、信じられるわけがない。彼は労働から逃れようとしては失敗し、苦しみ、悩んできたのだ。この悩みが完全になくなるような世界なんて、存在するはずがない。青年にとって哲人は、永遠に夢の世界に生きるピーターパンのように見えた。ピーターパンは現実の世界に引き摺り出さなければならない。青年はそう感じていた。

■何者でもない哲学者

青年:
先ほど、「新しい労働哲学」とおっしゃいましたね? それは一体どのようなものなのですか?

哲人:
21世紀の日本を生きる、ホモ・ネーモと名乗る哲学者が提唱している哲学です。

青年:
ホモ・ネーモ。いかにも胡散臭そうな名前だ。

哲人:
当然、ペンネームです。彼は「何者でもない」という意味のラテン語からこの名前をつけました。彼は、大学で哲学を学んだわけでもない一介のサラリーマンであるのに対し、哲学を発信して注目を集めているのはほとんどが大学の博士課程に進んだ人物です。つまり「何者か」であることが哲学界において重視されている。そのことに疑問を抱きホモ・ネーモと名乗り始めたそうです。

青年:
それは当然でしょう。どこの馬の骨ともしれない人物が哲学を語ったところで、素人特有の粗雑な暴論にすぎないのではないですか?

哲人:
当然、在野哲学者は玉石混交であり、そのほとんどが石の方でしょう。しかし、彼はこのように考えます。哲学とはその時代に権威となっている思想への挑戦でなければならないのだ、と。

青年:
その通りでしょう。常識を覆すというのは哲学の大きな役割の一つです。

哲人:
であるならば、本物の哲学者とは大学の外側にしか存在しないと、彼は言うのです。なぜならば、大学とは1つの権威を構築する場であり、権威の恩恵を受けるには、その権威となる思想を根本から疑うことはできないから。

青年:
理論上はそうかもしれませんが、体型的に学問を学んでこなかった妬みのようにも聞こえますね。

哲人:
ホモ・ネーモ自身も、妬みの感情を持っていることは間違いないでしょうね。事実、彼が自ら出版した著作は十数部売れた程度で、「新しい労働哲学」は、ほとんど世間には注目されていませんから。

青年:
当然です。労働なんてわかりきった営みに、哲学なんて必要ありませんから。

哲人:
「わかりきっている」という前提を覆すのが、哲学の面白さです。そして、注目されていなかったからと言って彼の哲学に価値がないとか、的外れだったかと言えば、そうとも限りませんよね。宮沢賢治も、ゴッホも、死後に評価されました。哲学書の金字塔であるニーチェの『ツァラストラはかく語りき』も当初は40部ほどしか売れなかったと言いますから。

青年:
つまりホモ・ネーモは、ニーチェやゴッホのような重要人物だと?

哲人:
私はそう感じています。むしろ、それ以上だと。なぜなら、私たちの生活を悲惨なものにしている「労働」を世界から一掃する可能性を秘めた哲学を提唱しているのですから。

青年:
なるほど、いいでしょう。仮にホモ・ネーモとやらの哲学で本当に労働を一掃できるのであれば、ニーチェやゴッホとは比べ物にならないほどの重要人物でしょう。ですが、「本当に一掃できるなら」の話です。そんなことはあり得ないことを、これから私が証明して見せますよ。
この議論が終わった頃には、あなたは認めることになります。ホモ・ネーモとは的外れなトンデモ理論を唱え続ける、痛々しい哲学者もどきに過ぎないと。


■期待はずれのロボットとAI

青年:
では、先ほどの議論の続きを始めましょう。先生は、ロボットやAIによって労働が代替されることで、労働なき世界が実現すると考えている、ということで間違いないですね?

哲人:
いえ、そうではありません。「新しい労働哲学」はロボットやAIによって代替される労働など、労働のごく一部に過ぎず、大半の労働は代替できないと考えます。あるいは、代替できるような労働は、すぐさま別の労働を生み出さずにはいられないと考えます。

青年:
どういうことですか?

哲人:
例えば、比較的低賃金で、代替されそうな仕事として飲食店の店員を考えてみましょう。

青年:
ええ、飲食店の店員は代替される仕事の筆頭候補でしょう。最近は配膳ロボットが増えていますし、タッチパネルでの注文も増えました。他にもセルフレジのお店も多いです。そのうち自動調理器のバリエーションも増えていき、完全に自動化されるのではないですか?

哲人:
一見するとそのように見えます。しかし、飲食店の仕事は本当にそれだけでしょうか? 例えば、お客さんが車椅子なのを見てテーブルを移動させたり、お冷が減っているのを見て継ぎ足したり、お手拭きが減っているのを補充したり、床に落ちているゴミを拾ったり、テーブルを拭き上げたり、テーブルを拭いた布巾を塩素系洗剤につけ置きしたり、「名前のない家事」ならぬ「名前のない労働」はたくさんあります。調理作業だけではなく、仕入れ作業、仕込み作業、ゴミ出し業務も膨大です。その全てを自動化することは本当に可能でしょうか?
それだけの仕事をさせるためには、AI開発者がいつまで経っても開発できない「汎用AI」や人体をそっくりそのまま再現するようなロボットが必要です。そんなブレイクスルーを起こすのは100年後でも難しいでしょう。

青年:
ほう。つまりドラえもんでも作れるようにならない限り、労働は代替できないと?

哲人:
その通りです。他にもトラックドライバーのような仕事であっても、単に車を運転するだけなら自動運転でいいところまでいけるかもしれません。しかし、ドライバーは荷物の積み下ろしや検品のほか、トラックの掃除や簡単なメンテナンス、雨が降ったらシートを被せる、といったさまざまな工程を担っています。「運転」という仕事内容に注目しすぎるあまり、それ以外の作業の複雑さが見落とされ、「簡単に自動化できる」といった言説が流布しているのが現状ですが、そう簡単ではないのです。

青年:
確かに、ブルーカラーの仕事は代替できないものが多いとは言われますね。ですが、ホワイトカラーならどうでしょう? エクセルやパワーポイントで資料を作成したり、営業用のメールを作成したり、データを集計したり、伝票を打ち込んだり、そのような作業は自動化されるのではありませんか?

哲人:
ホワイトカラーの仕事は比較的自動化されやすいでしょう。しかし、ホワイトカラーの仕事を自動化することは、労働なき世界の実現にはほとんど貢献しません。

青年:
どういうことですか? 今の労働の大半は、ホワイトカラーなのではないですか? だったら、その労働を自動化すれば、理論上は労働なき世界に近づくのでは?

哲人:
いえ、あり得ません。1つたとえ話をしましょうか。あなたは取引先の接待を煩わしいと思ったことはありますか?

青年:
そりゃあ毎週思っていますよ。私は営業職ですからね。席順やグラスの減り具合に気を配りつつ、取引先の冗談に調子を合わせ、少しも粗相がないようにしなければ、契約はおジャンです。そんな接待はなくなればいいと、願わずにはいられませんね。

哲人:
では、あなたの代わりにロボットが接待をするようになれば、どうでしょうか?

青年:
接待しなくていいなら万々歳ですが、ロボットで接待するような会社とは契約してくれないのではないでしょうか。接待とはそれ自体が目的というよりは、取引先に対して誠意を示し、交流を深めることが目的ですから、さすがに自動化には適しませんね。

哲人:
その通りです。そして、ホワイトカラーの仕事とは、大半が接待するような仕事だとすれば、どうでしょう? 自動化することに意味があると思いますか?

青年:
なんてことをおっしゃるのですか! ホワイトカラーの仕事が、キャバ嬢やホステスのようなものだとお考えなのですか? 先ほどはブルーカラーの仕事を単純視することを咎めたかと思いきや、今度はご自身がホワイトカラーを蔑視しているではありませんか! ホワイトカラーといっても多種多様ですが、少なくとも私の仕事は、接待だけではありませんよ?

哲人:
もちろんホワイトカラーが100%接待であるとか、そういうことを言いたいのではありません。しかし、「新しい労働哲学」では、ホワイトカラーの仕事は「経済活動」ではなく「政治活動」であると考えます。

青年:
経済活動? 政治活動? どういう意味ですか? あらゆる労働は経済活動ではないのですか?

哲人:
新しい労働哲学が定義する経済活動は、それよりも限定的です。例えば食べ物や家具、家、洋服を作る活動は、多くの人が考えるのと同じように経済活動であると定義します。もちろん、ゲームや漫画、小説を作るような活動も含まれます。
また、直接的に何かを生産しなくても、物を運ぶことやメンテナンス・清掃すること、あるいは子供や老人の世話をすること、お茶を出したりするような誰かに直接サービスすることも、経済活動と呼びます。要するに経済活動とは、直接、人のニーズに貢献する活動や、その活動に必要な準備のことですね。

青年:
なるほど、そこまではいいでしょう。では、政治活動とはなんですか?

哲人:
政治活動とは、一言で定義すれば、自分や自分たちの都合のいいように富が分配されるように働きかけたり、富の分配を管理したりすることを意味します。

青年:
富が分配されるように働きかけたり、管理したり、ですか?

哲人:
例えば、接待のような仕事は、要するに自分の会社と契約をしてもらうために行う活動であり、それ自体は何も生み出しませんよね。接待自体をサービスだと捉えることもできなくはありませんが、あくまで目的はサービス自体ではなく、契約です。
接待だけではなく、例えば営業職として取引先にプレゼンするようなこともあるでしょう。それもプレゼン自体が目的ではなく、契約をとることが目的であるはずです。CMやネットでの宣伝といった広告活動も同様ですね。
また、表計算ソフトでなんらかの取引を管理することや、プログラミングでそれを効率化することも、それ自体が目的なのではなく、単に富の生産や移転を管理している行為です。

青年:
つまり、生産や流通、メンテナンス、ケアに直接かかわらない事務作業やコミュニケーション、といったものですかね? ほとんどホワイトカラーの定義と重なりそうですが。

哲人:
ええ、概ねその理解で問題ありません。もちろん、その行為が全く必要ないと言いたいわけではありません。経済活動にはなんらかの管理が必要です。しかし、経済活動が増えることは、単純に考えれば好ましいことであるのに対し、政治活動が増えることはできることならば避けられるべきですよね?

青年:
避けられるべき? ホワイトカラーの仕事は無くなった方がいい、といことですか?

哲人:
少なければ少ないほどいい、ということです。例えば、親子丼がたくさん生産されたり、SF小説がたくさん書かれたりすることは、過剰生産のリスクもありますが、基本的にはいいことです。人々はたくさん親子丼を食べられますし、自分の好みに合ったSF小説が読めるのですから。
しかし、プレゼン資料が山のように積み上がったり、CMの量がこれまでの2倍になったところで、誰も幸せにならないどころか、資料を読む時間で家族との時間が奪われてしまったり、CMだらけでテレビがつまらなくなったり、私たちは不幸になりますよね。これらは、なければない方がいい活動なのです。

青年:
なるほど。仮にその主張を受け入れたとしましょう。そうだとすれば、あなたのいう政治活動がAIで自動化されることは、良いことなのではないでしょうか? なければない方がいいのですから。

哲人:
もちろん、それ自体が人を幸せにするのではない活動が削減されるなら、好ましいことでしょう。実際、AIはホワイトカラーの仕事を効率化することの方が長けていると言われています。ChatGPTは報告書を書いたり、プレゼン資料を作ったり、データ処理を効率化するプログラムを書いたりするようなことは得意です。それに、画像生成AIを活用すれば、広告のビジュアルを作ることも簡易化できるでしょう。

青年:
では、AIによって労働なき世界に近づく、というわけですね?

哲人:
いえ、そうではありません。先ほどは接待が自動化しても意味ないという話をしましたが、同様に提案書やプレゼン資料の作成が自動化されたところで、意味はないのです。

青年:
なぜですか?

哲人:
接待は取引先に誠意を見せること目的であるのと同じように、提案書やプレゼン資料も誠意を見せて、取引先を納得させ、契約を取ることが目的の大半です。仮に、A社もB社もAIを使っているなら、その誠意は打ち消しあい、また別の誠意を示す必要が生まれるでしょう。
要するに、営業や広告の活動は、軍拡競争のようなものなのです。Xという領土を得るためにA国が戦車を持てばB国も戦車を持つ。それでも、Xという領土が大きくなることはないのと同じです。

青年:
つまりAIを使って仕事を自動化したところで、それはお歳暮を自動で送りつけているようなもので、次はもっと豪華なお歳暮を送らなければならない。そのように、不毛な競争が過激化するだけであると、あなたは言いたいのですね?

哲人:
そうです。広い意味でIT化と呼ばれる営みも同様だと考えられます。もちろん、AIによって効率化できる領域もないことはないでしょう。しかし、現時点ではAIやITは仕事を減らす方向にはほとんど進んでいません。

青年:
いや、そんなはずはないでしょう。だとすれば、プログラマーたちは何のために働いているというのでしょう

哲人:
事実、私たちの社会では「◯◯を効率化するイノベーション!」と銘打ったサービスが雨後の筍のように登場していますが、大して労働時間の削減には繋がっていませんよね? AIやITが効率化した業務よりも、それらによって新たに生み出された業務の方が多いことは間違いないでしょう。そしてそこで生み出された業務は、別に人類の幸せには貢献していない。
AIが社会のどこで活用されているかを考えればよくわかります。一番よくAIの存在を感じる場面は広告やレコメンド機能ではないですか? そんなものは私たちを煩わせる以外に、なんの役割も果たしていないように思えます。

青年:
しかし、労働時間は少しずつでも減っているのではありませんか?

哲人:
もちろん、統計上は多少は減っているかもしれん。しかし、統計上にはサービス残業は反映されませんし、持ち帰り仕事も同様です。労働法が厳しくなるにつれて、サービス残業や持ち帰り仕事は増えているはずですから、統計をどこまで信じられるかはわかりませんよね。
それに、仮に統計が正しく、労働時間が減っているのだとしても、それでは不十分であると考え、もっと抜本的な改革が必要だと考えるのが「新しい労働哲学」なのです。

青年:
つまりAIやロボットによる労働削減ではない方法で、労働なき世界を実現する、というわけですか?

哲人:
その通りです。


■勘違いが蔓延する理由

青年:
なるほど、ここまでの議論に完全に納得したわけではありませんし、ところどころ議論に弱点があるような気もしますが、ひとまず受け入れるとしましょう。それでは、どのようにして労働なき世界を実現するのかをお聞かせいただきたい。

哲人:
そのことを説明する前にまず、なぜ「AIやロボットによって仕事が代替される」という言説が広まっているのかを考える必要があるでしょう。

青年:
どういうことでしょう?

哲人:
先ほどお伝えしたことは、少し考えれば理解できることです。経済活動の仕事はAIやロボットによって代替することはドラえもんでも開発しない限りはできないこと。政治活動の大半は代替しても更なる労働を生むだけであるということ。なにもむずかしいことはありません。
それでも、「AIやロボットによって仕事が代替される」という根拠のない言説が広まっているのには、理由がいくつかあるのです。
1つ目は、AIやロボットを売らなければならない人たちがいること。2つ目、政治活動が富を生み出しているかのような錯覚が生じていることです。

青年:
いいでしょう。ではまず1つ目について聞かせていただきましょうか。

哲人:
現在、人々や企業は、金を稼がなければならないという焦燥感に駆られていることは間違いありませんよね?

青年:
ええ。そうしなければ企業は倒産し、人々は住む家を失いますから。

哲人:
一方で、これまでと同じ物やサービスを売り続けていても、利益は増えない。なぜなら、物やサービスを買う人口は頭打ちになっていく上に、技術革新が起きたり競争相手が増えたりすることで価格が下がっていくからです。

青年:
需要と供給のバランスということですかね。需要は増えないのに供給が増えて価格競争が起き、利益が減っていく。高校生でも知っている経済学の基本中の基本です。

哲人:
基本的にはそういうことです。そうなると需要を増やす必要がある。需要を増やすには人口が増えるか、未開のジャングルに済むような人々を市場に取り込むことが手っ取り早い。それができなくなったら、カラーテレビや洗濯機のような目新しいイノベーションが必要になる。戦後の高度経済成長はイノベーションが次々に起きて、大衆が新しい商品を買うことで起こりましたよね。ところがイノベーションはもう生まれなくなってきた。

青年:
ちょっと待ってください。イノベーションが生まれなくなっただなんて、本気で言っているのですか? いまはイノベーションの時代であると、誰もが知っていますよ?

哲人:
では、最近登場したイノベーションをいくつか挙げて、それらについて考えてみましょう。

青年:
いいでしょう。仮にAIやロボットが仕事を代替しないとしても、その発展が目覚ましいことは明らかです。それに少し前ではメタバースやNFT、5G、暗号通貨なども登場しました。ゲノム編集技術なんかも発展は目まぐるしいのではないでしょうか。

哲人:
それらのテクノロジーの特徴をよく考えてください。まず暗号通貨が登場したとき、人々の反応は「それのなにがすごいの?」ではなかったでしょうか。そしてそのあと「暗号通貨はすごいのだ!」という言説が流布した結果、大してそれを理解しているわけではない人々も「暗号通貨が世界を変える!」と口を揃え始めました。そしてしばらく経てば、誰も暗号通貨のことなど話題にせず5Gの話をしはじめる。5Gも同様です。「なにがすごいの?」から始まり、「すごいのだ!」「世界を変える!」となって忘れ去られる。
実際に起きているのは大してすごくないものを「イノベーションだ!」と騒ぎ立てられるうちに信じ込まされ、そして化けの皮が剥がれては次々に忘れ去られていくという事態に他なりません。事実、近年達成された生活上の変化を、あなたはいくつあげられますか?

青年:
そう言われればそうですが。それは近年のテクノロジーが複雑であり、凡人に理解できないだけとは考えられませんか?

哲人:
仮にそうだとして、私たちの暮らしに良い影響を与えないのであればイノベーションが何の役に立つのでしょうか。逆に冷蔵庫や電子レンジ、カラーテレビの方が、明らかに私たちの暮らしを変えているのです。これらの方が意味のあるイノベーションだったはずなのに、それらはなかったかのように「暗号通貨は産業革命に匹敵する」などと言われるのです。
確かにスマートフォンはイノベーションでした。しかし、それも10年以上前の話。到底「技術の変化が早すぎる時代」だとは思えません。

青年:
では、仮にそうだとして、なぜこれほどまでにイノベーションが起きていると、私たちは感じているのですか?

哲人:
それが、その言論が生じた1つ目の理由「AIやロボットを売らなければならない人たちがいること」です。イノベーションが起きていなくても金儲けのために新しい需要が必要なのですから、AIやロボットといったそこまですごくないイノベーションを「これまでにないすごい物です!労働を代替します!ぜひ買ってください!」と売り込む結果になる。そして、売り込むために広告が流れ、本が書かれ、ニュース記事が書かれる。その結果、AIやロボットの機能が過大評価されているのです。

青年:
ほう。まるでフリーメイソンの陰謀とでも言いたげではありませんか。誰かが悪事を企んで、世界中を洗脳しているとでも?

哲人:
もちろん、誰か1人の陰謀だなんて言うつもりはありません。それに、ある意味で、AIやロボットを売り込んでいる人は、本当にそれで労働が代替されると信じているのですから、陰謀を企てているつもりもないでしょう。

青年:
どういう意味ですか?

哲人:
これは言説が流布した2つ目の理由、「政治活動が富を生み出しているかのような錯覚が生じていること」に通じる話なのですが、説明していきましょう。
政治活動は軍拡競争のように不毛な争いになる傾向にあることは先ほどお伝えしましたね。仮にそうであったとしても、実際に物やサービスを生産する経済活動を行う人たちよりも、たくさんの利益を得られることは間違いないのです。

青年:
まぁ、ブルーカラーよりホワイトカラーの方が収入が高いのは事実でしょう。

哲人:
その通りです。物やサービスの価格はどんどん下がっていき、誰も買わなくなるほど供給が溢れかえったいま、「いかに人々に買わせるか」の方に企業は力を入れざるを得ません。だから、政治活動にお金をかけることになる。そして、政治活動を担う人たちがお金をたくさん得られるようになっているのです。

青年:
なるほど。

哲人:
では、政治活動を担う人々が大金を稼いでいるのに「それは所詮、不毛な軍拡競争だからやめるべきだ」だなんて文句を垂れる人はどうなるでしょうか? 競争に敗れてしまうのがオチですよね。
社会全体として軍拡競争が不毛であっても軍拡競争に参加しなければ自分の取り分がなくなってしまいます。そして参加して、大金を得ることに成功したなら、今度は自分が不毛な軍拡競争で富を得ただなんて言えるでしょうか? 自分は正当な努力の結果、社会に貢献し、正当な富を得ていると、自分を納得させるのが人情というものではないでしょうか。
彼らは経済活動を行う人々からある意味で不労所得を得ている。しかし、その不労所得を得るための行為がとんでもなく苦労に満ちているために、彼らは自らの苦労を正当化せずにはいられないのです。

青年:
つまり不毛だとわかっていても、人や企業は利益を確保するために軍拡競争に参加しなければならず、参加することであたかも軍拡競争が何かを生産しているという錯覚を自分の中に育んでいった、というわけですか。

哲人:
その通りです。それもこれも「金を稼がなければならない」という焦燥感から生まれた現象だと考えられるでしょう。

青年:
ますますわかりませんね。もし、全体として不毛であるならば、そんな労働はさっさとなくなるのではありませんか? 現にそれが存在しているということは、政治活動も私たちの社会に必要ということではないでしょうか?

哲人:
必要かもしれないという可能性は完全には否定できません。しかし、それでも政治活動はなければない方がいいことは疑いようがありませんよね? ならば、いま存在している政治活動の総量が本当に必要最低限であるかどうかはチェックして損はないはずです。「新しい労働哲学」はいま存在している政治活動が、必要以上に肥大化していると主張し、減らすべきだと主張します。理想論ではありますが、人類社会としてみたときに、政治活動を減らす余地があるのなら、減らしていくべきであることは明らかでしょう。

青年:
百歩譲ってここまでの議論に同意したとしましょう。そして、人々は無意味な政治活動に邁進していて、それは自動化されたとしてもまた別の政治活動を生んでしまうのだとしましょう。
だとするなら、どのように労働なき世界を実現するのですか?

哲人:
「新しい労働哲学」の答えは1つ。ベーシック・インカムです。


■ベーシック・インカムと焦燥感

青年:
なにを言い出すかと思えば、いまや猫も杓子もベーシック・インカムだ。「新しい労働哲学」が聞いて呆れる。全くありふれた議論なのではないですか? 万人に金を配るベーシック・インカムで労働をなくす?
あなたの魂胆がだんだん見えてきましたよ。確かに、ベーシック・インカムが配られれば、労働はなくなるかもしれません。しかしその世界では、誰も食べ物を生産しないし家も建たない。子どもの面倒を見ないし、電気もガスもない世界ではないのですか? それじゃ誰1人として生きられないのではないですか? それとも、洞穴で凍えながら暮らせばいいとでも言うのですか?

哲人:
まぁ落ち着いてください。「新しい労働哲学」は決して禁欲思想ではありませんが、その点は後ほど説明するとして、まずはホモ・ネーモがベーシック・インカムでなにを目指そうとしているのかを説明させてください。

青年:
ふん。納得はできませんが、その点は後ほど論駁させていただきましょうか。では、続けてください。

哲人:
ベーシック・インカムの目的はたった1つです。それは「金を稼がなければならない」という焦燥感を消すことです。

青年:
なにを言い出すかと思えばそんなことですか。馬鹿馬鹿しい。たかだか月数万円のお金が配られたところで、焦燥感が消えるだなんて、人間を理解していないのは一体どちらでしょう?
いいですか? 人間は底抜けで強欲な生き物なのです。最低限の金をもらったところで、他人よりいい時計が欲しい、いい車に乗りたい、いい家に住みたいという欲望のまま、金を渇望することでしょう。世界中のランボルギーニを独占でもしない限り、その欲望には終わりはありません。ならば、あなたの言う政治活動がなくなることは決してない。むしろ、貧困者のベーシック・インカムの分前に預かろうと、怪しげな貧困ビジネスをスタートする輩が大量発生するのが目に見えています!

哲人:
金額については議論の余地がありますが、一旦置いておきましょう。つまりあなたは、ベーシック・インカムを貰っても人々は相変わらず働き続けるとお考えですか?

青年:
もちろん、全員がそうとは限らないでしょう。怠け者たちは最低限の金で満足し、労働をやめるはずです。となると、怠けて勉強しなかった結果、低賃金のブルーカラー‥あなたのいう経済活動の仕事に就いていた人々は、一斉に仕事をやめるでしょうね。貧困者はダラダラと酒やギャンブル、娯楽に溺れ、金持ちだけがさらなる富を蓄積する。絶望的な格差社会がやってくることでしょう。

哲人:
つまり、社会に必要な経済活動は誰もしなくなり、社会は政治活動ばかりになるということですか? そうなると、もはや社会機能は崩壊したも同然ですね。

青年:
ご自身でも理解しているではありませんか! その通りですよ! 誰も必要なものを生産せず、労せず金を得ることばかり考える。そんなときに、毎月配られる端金がいったい何の役に立つと言うのでしょう?
世界はギャングが蔓延り、金持ちだけがボディーガードを雇い、貧困者は暴力に怯える。『北斗の拳』のような弱肉強食の世界がやってくるのは目に見えています。

哲人:
つまり、整理させてください。あなたは、必要性にせまられて労働しなくてよくなった場合、人間の欲望はさらなる富か、酒やギャンブルといった娯楽にしか向かないと考えているのですね。

青年:
疑いの余地がありますか? 人はまず、食べ物を食べたい。温かい毛布で寝たい。そのような生命維持に関わる欲望を満たそうとします。そのために嫌々ながらも労働するのです。もし、生命維持の欲望を満たせたなら次は娯楽を追求するか、人によってはさらなる富や権力、名声を求めるでしょうね。

哲人:
なるほど。では、喜んで食べ物を生産したり、家を修繕するような人は存在し得ないと。

青年:
もちろん、そこまでは言っていませんよ。趣味レベルで家庭菜園をする人や、DIYに勤しむ人は今の社会にも存在しますからね。ベーシック・インカムが到来した時代においても、一定数そのような趣味に没頭する人はいるでしょう。しかし、それらは気まぐれにほんのわずかな生産量しかもたらさず、社会を成立させるには到底足りません。それに、仮にたくさん野菜や家を生産できたとしても、それをむざむざ他人に譲り渡すことはないでしょう。食料をちらつかせた搾取や性暴力も横行するでしょうね。

哲人:
しかし、不思議ではありませんか? なぜ人は労働として畑を耕すことは嫌悪するのに対し、趣味で家庭菜園をすることは渇望されるのでしょうか?

青年:
まったく。答えは分かりきっているじゃないですか! 金ですよ! 家庭菜園に金は発生しませんから呑気なものです。いつ休んでもいいし、失敗してもいい。でも、生活していけるだけの金をもらうにはそうはいきません。商品として適合するレベルの作物を作らねばならないし、必ず一定の量が必要です。そのため1人ひとりの労働者も厳格に規律に則って働く必要がある。だから退屈なのです!

哲人:
つまり、「金を得るため必要があるために、労働は退屈になっている」というわけですね?

青年:
ええ、その通りですよ? 金を得るためという責任感が仕事を完遂させなければならないという焦燥感を生み、結果としてそれが仕事の退屈さを生んでいます。僕たちは金がなければ生きられないのですから、退屈な労働は避けられないのです! FIREを達成した人でもなければね!

哲人:
では、ベーシック・インカムが解決するのではありませんか? 金を得る必要がなくなるのであれば、人は楽しく畑作業ができるのでは?

青年:
ええい! 話が堂々巡りしているようだ! 金を得る必要がなくなったのなら、その仕事は単なる道楽であり、誰も社会を成り立たせるのに必要な量を生産しませんよ! もちろん他の産業でも生産量は大幅に減るでしょう。そうして物が不足し、金は役に立たなくなる。違いますか?

哲人:
生産量は確かに減るでしょう。しかし、その方がいいのだとすれば、どうでしょうか?


■エッセンシャルワーカーも減らせる?

青年:
ははっ、とうとう正体を現しましたね? どうやらあなたは怪しげな禁欲思想を説く新興宗教家のようだ! 少ない労働で済むように質素倹約に暮らして、座禅を組んでお経でも唱えながら、極楽浄土に想いを馳せておけばいい、と言いたいのですね? そんな現実逃避で救世主ヅラとは、虫唾が走りますよ! 僕たちはパーティやゲーム機、遊園地といった衣食住とは関係のない過剰なエンタメに骨の髄まで浸かりきった欲深い生き物なのです! 1人ひとりの労働者が長時間働くことで、この娯楽に溢れた社会の生産量が実現できているのです。道楽で働いた程度では、せいぜい玄米と高野豆腐ばかりを食べて暮らすのが関の山で、生命を維持するのがやっとでしょう。それとも、わたしたちがいまさら石器時代のような暮らしができるとでもお思いですか?

哲人:
いいえ、違います。質素倹約に生きる必要はないのです。豪華なパーティやゲーム機、遊園地を楽しめる社会のまま、労働だけを無くす世界が可能であると言っているのです。

青年:
いいでしょう。あなたの荒唐無稽な話に耳を傾けるのにも、多少は慣れてきましたよ。一体どうすれば、そのような世界が可能なのか? 馬鹿げた理論をご説明いただきましょうか。

哲人:
例えば、もし今の社会では必要以上に野菜が作られて、捨てられているとすればどうでしょう? 必要以上に家を建てているならどうでしょう? 労働の大半はなくなっても問題ないのではないですか? 私たちの社会では、あらかじめ存在するニーズ以上にモノやサービスが生産されています。それどころか、ニーズを捏造するために膨大な労働力が浪費されているのです。

ここから先は

19,763字

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!