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宮城県南三陸町にて

二月末、初めて東北に行きました。

仙台市内からバスで2時間。志津川に降り立ったものの、このバスの停留所、実はもともと"志津川駅"という電車の駅だった場所でした。そう、かつては線路があったというのです。今ではそれがわからない。駅も線路も流され、仮設の停留所となっていました。

その駅から少し歩くとすぐに海が見えてきた。道路は綺麗で真新しい様相を呈しつつも、横を見ると砂利だったり岩がむき出しだったり。整備されたように見える土地はすべて積まれた赤土…。人は住んでいません。
ときどきぽつんと建っている建物も、工事用のプレハブでした。
ただ一つ、防災庁舎だけはしっかりと佇んでいます。

この日たまたま、漁港で「福興市」が開かれていました。
これは、海が近い南三陸町ならではの海鮮の美味しさをみんなで共有する、市場のようなもの。中でも牡蠣は最高でした。
海風も強くまだまだ寒かったこの時期、温かいスープや飲み物が体にしみます。
ここで印象的だったのは、とにかくお店のおじちゃんおばちゃんが明るいこと。
福興市は、特に観光客に向けたイベントではありません。でも、地元の人ではない私にもりんごをおまけしてくれたり、ブースの前でちょっとお喋りしたり。ほんの些細なことでしたが、パワフルで明るいその姿に私が元気をもらいました。

次に向かったのは、これもバスの停留所からすぐの「さんさん商店街」

震災前の商店街はすべて流され、しばらくは仮設で営んでいた。それが、昨年本設オープンを迎えました!

さんさん商店街HP→https://www.sansan-minamisanriku.com/

道を歩いていると人通りはほとんど無く本当に静かでしたが、ひとたび商店街に足を踏み入れると活気に満ち溢れていました。

さんさん商店街には、南三陸名物「キラキラ丼」を振る舞うお店のほか、ブティックや雑貨屋さん、カフェなどたくさんのお店が軒を連ねています。

こちらは、いくらキラキラ丼。いくらがぷりっぷりで、かつてないほどの量!

最後に立ち寄ったカフェでは、どこか懐かしさのある可愛らしいカップに入ったプリンを頂きました。お冷のグラスも可愛い。
この写真を私のインスタにアップしたら、このお店から御礼のコメントが届きました。嬉しい…!こちらこそありがとうございます。

そして、南三陸を訪れて最も衝撃を受けたのが、この商店街の真ん中にある写真館。
ここで、「南三陸の記憶」という写真展が開催されていました。

震災前、海辺近くに所狭しと建ち並ぶ家々と、地域のお祭りがたくさん開かれる賑やかな町。

そんな平和な日常が突然失われ、写真は津波に飲み込まれていく町に様変わりします。

地震当日の写真には、全て時刻も共に記されていました。
地震発生から一時間。
少しずつ、でも確実に全ての建物を波が覆っていく。

何一つ隠すことのない、ありのままを被災者が撮影した写真はどこか生々しく、当時の音までも聞こえてくるかのようでした。

地震から数日。
当初の予定からは大幅に遅れ実施されたという、小学校の卒業式。そこには、子どもたちと地域の方々、自衛隊の方の笑顔がありました。
震災後に撮られた写真の中で、笑顔が登場したのはこの写真が初めてでした。

津波で流された商店街も、仮設の商店街ができ、たくさんの人が行き交っている。

少しずつ活気に溢れた写真に変わっていく中、悲しい涙を必死にハンカチで拭うおばあちゃんの写真が。
おばあちゃんの視線の先には何があったのだろう。

波がひいたあとは、崩れた家が瓦礫となって散乱している。もとの暮らしなんて想像もつかないほど、跡形もなかった。
津波という一瞬の出来事で、全てを流されたこの町。それでも、私が訪れた今の商店街にはたくさんの人がいて、美味しいものがたくさんあった。お店の人はみんな気さくで、私がどこから来てどんな人かなんて聞く人はいなかった。ここにいる人たちにとって、訪れる人がどうではなく、その場でのふれあいが一番大切。
初めて出会うおじちゃんおばちゃん。その人たちと一瞬でも、楽しく会話ができることが何より嬉しかった。

東北では、非日常が日常の世界。
津波で流された場所は、高く盛られた土と重機しかなかった。その世界はまだ続いてる。

震災前と震災後の同じ場所を上空写真で見比べると、工事によってこれまでにはなかった新しい道路が作られ、土地はすべて土で高く盛ろうとしているようだった。
この町にもう一度住みたい人、海辺にはもう住みたくない人。住民の安全、楽しさ。
今後、流されたこの町には何ができていくのか。ゼロの状態から街を作り上げていくなんてことは、今の世界ではほとんどない。でも、それが東北では必要だった。
「復興」と言うけれど、元に戻すだけでは不十分なはず。この町の未来、日本の未来のことが考え抜かれた場所になってほしいと、日曜日で全ての重機が止まっていた工事現場を眺めながら感じた。

これまで、東北大震災の様子はテレビでしか見たことがなくて、知り合いもいないしどこか他人事で、そんな私なんかが関わるものではないとずっと思っていました。「被災地」という呼び方をすることも、被災したのにこんなことやってますって24時間テレビのような番組で特集を組まれることも、単純だから感動して涙したりはするけれどやっぱり違和感はあって。
だけど実際に行ってみると、テレビなんてものは何一つ、その惨状を伝えきれていない。被災した写真家が主催していた写真展は、相当な衝撃でした。海辺に所狭しと並んでいた家々は全部水の中。もともとの暮らしなんて少しも想像できない。すべて瓦礫に変わり果ててしまっていた。
今は瓦礫はなくなっていても、遠くからでも海を見渡せるほど建物が何もない。人も全然いなくてすごく静かだったけれど、震災後に新しく建て直された商店街や、福興市と呼ばれる海産物が大量に並ぶ市場はとても賑わっていて、
「東北の被災地」と括っていたものが、ちゃんと「南三陸町」という一個の町として認識できました。

最後に、住民の方々が逃げたという高校のグラウンドから町をながめました。

当時、この場所から波に飲み込まれる町を見つめていた方々のお気持ちは計り知れません。

自分の大切な人はどこにいるのか、
ちゃんと逃げているのか。

「津波から逃げた」先にある不安や焦り、悲しみ。こんな言葉ではまとめられない多くの複雑な感情が行き交う。

3.11という日が、私にとってとても重要な、そして良い意味で意識せざるを得ない、そんな日になりました。

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