都会の砂漠に寝ころんで (『砂漠と異人たち』感想)

宇野常寛さんの「砂漠と異人たち」を読んだ。

読み終えた直後の率直な感想は『なるほど、分からん!』だった。
前半はまだついていけたが、後半の村上春樹さん作品を『社会における男性性』の視点から分析していくところは振り落とされた。

それでも、いくつか気が付いた点はある。
『この本という砂漠に触れて私が見たこと、感じたこと、起きた変化』について、書いておきたい。

著者及び『遅いインターネット』について

この本の著者の宇野常寛さんは、SNSの普及による『速すぎる』情報により、人々が考えなくなっていることを危惧し、『遅いインターネット』を提唱している。

<遅いインターネット宣言>

現在のインターネットは人間を「考えさせない」ための道具になっています。
かつてもっとも自由な発信の場として期待されていたこの場所は、いまとなっては最も不自由な場となっています。
そこで私たちは一つの運動をはじめます。いまのインターネットは「速すぎる」。
私たちはいまあえて速すぎる情報の消費速度に抗って、少し立ち止まって、ゆっくりと情報を咀嚼して消化できるインターネットの使い方を考えてみたいと思っています。いま必要なのは、もっと「遅い」インターネットだ。それが私たちの結論です。
遅いインターネット宣言 | 遅いインターネット (slowinternet.jp)

コロナ・ショックや社会的不安とSNS

P10『未知のウイルスに怯える人々は、まずその不安に情報を得ることで打ち勝とうとした。(中略)しかし、多くの人々は情報を検索しても答えがないことを、「分からない」という答えしかないという現実を受け入れることができなかった。(中略)いつの間にか人々は問題を解決するためではなく不安を解消するために、考えるためではなく考えないために情報を検索し、受信し、そして発信するようになっていった

私がXを開始したのは2024年2月だが、この本の中でも繰り返し言及されているとおり、コロナ禍に関する陰謀論がSNSで広まったことは把握している。
そしてこの本の中ではコロナ・ショック(未知のウイルス)が取り上げられているが、こうしてSNSが逃避先になるのは、コロナ以降、現在でも続いていると思う。
例えば、天災が起きた時にSNSを見る人は多いと思う。『災害に関する情報収集』『不安や心細さから、オンライン上の知り合いと繋がっている感覚を得て少しでも安堵したい』『現実逃避のために無関係な人達の世界を感じたい』等々、目的は人によって異なるが、人々がSNSを求め、SNSはその役割を果たし、そして情報を過剰摂取して疲れた人々に対して『SNSを閉じよう』という呼びかけが投稿される。
天災に限らず、ストレスにさらされた時に解決策や安堵を求めるのは自然な心理だと思う。
私も退職強要等で希死念慮に覆われていた頃、劇団四季を観に行って自分が観客であることに安堵した。

(当時の日記)
劇団四季を観る時の、いつもの没入感は味わえなかった。高揚もできなかった。
舞台を眺めながら、時折、会社のことを考えてしまった。
それでも、観客として暗がりから舞台を眺めている間、少しほっと出来た。
劇の上演中、舞台の上で物語が繰り広げられる。
暗い座席は舞台の外だ。何かの役割を求められることも、ストーリーを進める必要もない。
明るい舞台を眺めながら、そのことが心地よかった。

一方で筆者が警鐘を鳴らしているのは、それが緊急避難的な”非日常”に収まらず、”日常的に”人々がSNSの”速さ””相互評価”に飲み込まれてしまっていることだと感じた。

現在のSNS(評価を得るための発信ゲーム)

P14『SNSのプラットフォームは、あたらしい民主主義の起爆剤になるどころか、むしろ民主主義の行き詰まりに加担しているのが現状だ。(中略)一方ではフィルターバブルによって自分たちは見たいものだけを目に入れ、聞きたいものだけを耳に入れることで精神を安定させたい人々にフェイクニュースや陰謀論という名の麻薬を与える装置となり、もう一方では、正義の名のもとに他の誰かに石を投げる私刑の快楽を手放せなくなった人々に、安価で高性能な投石機を与えている
P16『彼ら/彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が他のプレイヤーの共感を集めたとき、自己の存在が承認されたと感じる。(中略)このように今日の情報社会は、とりわけSNSの登場によってこの一つの大きなゲーム――共感の獲得を競う相互評価のゲーム――に覆われている』
P18『誰もが、大喜利のようにタイムラインの潮目を読み、より多くの他のプレイヤーからの関心を得られる投稿を試みる。そしてこのとき、選ばれるのは問題の解決でも再設定でもなく、魔女狩りだ

この本を読みながら、私の頭には最近見かけたいくつかのことが過ぎった。

大喜利・魔女狩り

私がX(Twitter)を開始した1か月と少しの間、外資系コンサルのアカウントの方々の中でしばしば盛り上がっているのが『誰かの作成した資料へのレビュー合戦』や、その資料や作成者・特定の立場の人を”立派な外資系コンサルタント”としていかに批評・嘆いてみせるかだった。

引用リツイートで批判し、それを周囲が楽しんでリポストし、フォロアー数の多い人にコメントを求め、その発言に盛り上がる。

『アベイラブル(PJにアサインされていないコンサルタント)は低パフォーマンスだからだ。当人達はクビにされる危機感を持て』『アベイラブルの人に人権無し』といった発言が飛び交うのを観ていて、いかにキャッチーな言葉を使うか、強い言葉を使うかを競っているように感じていた。

問題の再設定がされない閉じた世界

少し前、ある外資系IT企業のPIPに関する記事がX(Twitter)の私のタイムラインに流れてきた。
その後、記事を執筆した方が
『外資系コンサルのインフルエンサーたちにも一瞬RTはされたものの、「外資ではそういうことに準備しておくのが作法だろう」というスタンスは変わらない』
という旨の呟きを投稿していた。

この一件を思い出し、『共感の獲得を競う相互評価のゲーム』『選ばれるのは問題の解決でも再設定でもなく、魔女狩り』がストンと腑に落ちた。
閉じた世界の中における共感の獲得を競うゲームプレイヤーにとっては、問題の提起よりも、”外資系コンサルらしい発言”で共感・賛同を得る方が優先される。

無論、自分が課題提起するかどうか、選択は発言者の自由だ。(そしてそれは最も尊重されるべき自由だと思う)
ハラスメント・PIP被害の訴えに関する投稿・記事を大喜利や魔女狩りには使いにくい。一方で、外資系コンサルの厳しい一面としてキャッチーではある。このような厳しい業界の中に存在している自分という評価にもつながる。従って、”外資系コンサルらしい発言”で共感・賛同を得るに留まったのではないだろうか。

(なお、私には、この記事が何も影響を与えなかったとも思えない。(その判断は私には出来ないという方が正しいかもしれない)
例えば、発言はしていなかったが、この記事を読んだことで将来、声を上げる人はいるかもしれない。少なくともそういう人が検索した時に行き当たる記事があるかどうか、その有無を変えることは大事だろう。
労使問題に関しては、様々な方々がこれまでも街頭で、メディアで、SNSへの投稿等で、活動を続けてきた。その結果が『法』や『社会の常識』の変化だと思う。
今では、『過労による精神疾患により自殺』と聞いて、『自己責任だ』と(少なくとも公には)批判しにくい。だが、一昔前までは会社の責任は問われないのが普通だったという。
大きく取り上げられなくても、どこかに、誰かに影響している可能性はある。その可能性を零にしないために、先日の記事は、これまでにされてきた様々な方々の活動と同様に、重要な意味を持つと思う。)

速すぎるインターネット

SNSを「自分たちは見たいものだけを目に入れ、聞きたいものだけを耳に入れる」場所とし、本は続く。

P48『いまのインターネットは速すぎる。技術の実現した情報の速度に、人間の知性が追いついていない。そのために、人間は発信することでより愚かになっている。発信する快楽に溺れることで、より拙速に、考えなくなっている。あなたがタイムラインに流れてきたニュース記事にSNS上で反応するとき、果たしてその記事の内容をどれだけ吟味しているだろうか

正直に言うと、『SNSにより考えなくなっている』という論について、この文を読むまで私の中には疑念が残っていた。

というのも、X(Twitter)を始めたことで、人事コンサルの方や産業医の方、同じ外資系でも現実では接点が無かった方の立場・考えを知ることが出来たからだ。
そして新しい本にも出合うことが出来た。
従って、『私にとってX(Twitter)は自分の欲しい情報が手に入る場所ではなく、欲しいとも思っていなかった(存在すら知らなかった)ものに出会える場なのでは』と思っていた。

しかし、この一文を読んで我が身を振り返り、ギクリとした。
昨日、何時間SNSを見ていたか。(何と前日4時間も見ていた)
何を読んでいたか。何を考えていたか。何を投稿したか。
大半の記憶が曖昧だった。思い出すには情報が多すぎた。
一冊の本を読んでいたのなら、基本的に思考はその本から派生またはその中に深く潜っていく。
一方でSNSをしている時の記憶は盛りすぎたビュッフェのお皿のようで、どれも小さく断片的だ。

どちらの味わい方でも、軽食にならいいだろう。色んな味を楽しむのも時にはいい。だが、それが知らない間に『日常』になっている。

X(Twitter)で『欠乏の行動経済学』という本を知り、読み、いろいろと考えたことがあった。だが、考えた後、私はどうしたか。
X(Twitter)で呟いただけで終わっている。そして私の興味・関心はあっという間に他の情報に流れてしまった。
『遅い』世界である本を読みふけっても、私の関心は『X(Twitter)』に流れてしまっている。

P50『(SNSの)潮目に流されないために自ら問いを立てて「書く」こと。この力が時間的な自立に必要

私は、noteにこの本について書くことにした。

都会の砂漠

P26『(SNSによるサイバーネットワークへの動員の革命で)動員されたその場所で果たして何かに出会えたのだろうか』
P27『「動員の革命」の失敗は、世界を見る目と歩く足が鍛えられていなければ、結局人間はどこに動員されても、何ものにも出会うことはできないことを僕たちに教えてくれた』

『閉じた相互評価のネットワークの外部』を『砂漠』、『閉じた相互評価のネットワークから離脱した存在』を『砂漠を歩く旅人』に例え、アラビアのロレンスを考察した著者は、P182『ロレンスの失敗は、ロンドンやオックスフォードに砂漠を発見できない人間はアラビア半島に赴いても砂漠そのものに触れることはできないことを示している。(中略)そして内部に発見された砂漠に、そこに存在する事物そのものにその身体が触れたとき、僕たちは、はじめて変化する機会を得る』と言い、『都市の中に砂漠を、日常の中に非日常を、閉じたネットワークの内部に裂け目を、人間たちの世界の中に人間ではない事物の世界を見る目を養い、そこを走る足を鍛えること』と繰り返す。

では、私にとっての『砂漠』はどこにあるのだろうか。
そう思い巡らせてはたと思い当たったのが、前述の図星の一件だ。
私はこの本を読み、理解はしきれていないが筆者の考え方に触れ、変化している。
ならばこの本そのものが私にとっては『砂漠』
なのではないだろうか。
SNSは非日常な砂漠だ。SNS上を本の紹介が流れて来る時、それは非日常的な砂漠の光景にすぎない。だが、それに手を伸ばして読み、私の中に何かの変化が起きたとき、私は『砂漠』に触れているのではないだろうか。

疑問形で書いたが、正誤はあまり気にしていない。
少なくとも、私はこう考えてわくわくした。もっと本を読もうと思った。考える力を磨きたいと思った。
この本の意図するところと違っていたとしても、この本が”きっかけ”であり、触媒となり、私の心境には変化が起きた。
今はそれで十分だと思う。

砂漠を歩く力

普段目にする世界(内部)に砂漠(外部)を見出すため、『世界を見る目と歩く足を鍛えること』の重要性がこの本では一貫して解かれている。
『目的を持たずに走ること』『速さを求めないこと』等に触れられていく。
これは私が本を読むにあたっての心がけと受け止めても変わらないだろう。

ゲームに依存しない抗体を持つこと(P271)
自らが書きたい事物について純粋に批評し、それを発信していた時代に回帰すること(P312)

そして、見る目と歩く足を鍛えて『砂漠』を『何もない』場所ではなく、自らも変化し得る『庭』としてとらえられるようになること。
タイムラインとは異なる、(いわば時間が止まった)書物の世界をゆっくりと読み、考えたことを書くこと。

そうなりたいと思ったことが、この本という”砂漠”の旅で私に起きた『変化』だったと思う。
見る目を養った後、今度は何が見つかるのか。
また訪れてみたい。

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