見出し画像

M・Horkheimer「完全な他なるものへの憧れ〈ヘルムート=グムニオールとの対談〉」(1970)試訳

グムニオール:「現実の自由主義におけるあらゆる無限の概念は、この世の出来事の決定的な意識として、人間を修正不可能にまで見放す意識として維持し続けている。そしてこの概念は、社会を忌々しい楽観論から、新たな宗教としてそれ自身が了解している広がりから守っているのだ」この文章をマックス=ホルクハイマーは35歳の時にアメリカの亡命地で書いています。彼は当時、一年以上も前からニューヨークにいました。理論の創設者が生産過程としての社会活動を理解しようとした時、依然としてホルクハイマーは目下のところマルキストと見なされており、哲学は闘争を心得て、健全な世界が革命を期待し社会の理性的な状態を待ち望んでいるといった世俗を離れた空論を心得ることはありませんでした。

ホルクハイマーさん、それに対してマルキストないし革命家はどのようにしてそのような文章を書くに至ったのでしょうか?


ホルクハイマー:私がマルキストであり革命家であったことは間違いありません。私は第一次世界大戦後からマルクスに取り組み始めました。ナショナリズムの危機が周知になり始めたため、私は、ただ革命を通じて、厳密に言うとマルキシズム的な革命を通じてのみナチズムが排除されうると考えていたのです。私のマルクス主義つまり私の革命論者の存在は、右派から全体主義の支配への解答であったのでした。しかし、すでに当時から私は、その支配がマルクスによって要求されたプロレタリアートの連帯を最後に正しい社会に導きうるのかという疑念を持っていました。

マルクスはプロレタリアートの抑圧を出発点とし、このような状況をプロレタリアートが自覚せねばならないということを必要としています。そのとき彼らは自分たちが共通の関心を持っていることを発見することになるのです。その関心とは、抑圧の徹底的な除去についてです。

しかし、この段階でマルクスは思い違いをしていたのです。プロレタリアートの社会的な状況は革命抜きにより良くなっており、共通の関心は社会をほとんど変化させることはなく、もはや生をより良い物質的なものに変化させています。

しかし、連帯は存在します。そして、連帯は単なる決められた階級の連帯ではなく、あらゆる人間を結びつけているということを示唆するためにあなたが引用した命題の中で私は生を試みるのです。私は、人間は苦しまねばならないということ、人間は死ぬということ、人間は有限な実体であるということから連帯は生み出されると考えています。

我々はみな一つである限り、あらゆる人間の生がより美しく、長く、善く、苦しみから解放された世界を生み出すということについてという根源的で人間的な関心を我々は持ちます。そして−しかし、私が真ではないと思っていることをなおも付け加えるように−精神を具体的に展開するために好都合である世界を生み出すという関心を持たねばならなかったのです。


グムニオール:あなたは人間の有限性を口にします。当時、あなたは最後の意識として維持している無限の概念を口にしています。数年前、あなたはとある論文の中でショーペンハウアーについて論じていました。「真理について、そして真理が保証しているものについての思考なしにその反対のものの自覚はなく、人間の放棄のために真なる哲学は批判的かつペシミスティックであり、それどころかこれまで一度も、悲しみを抜きにして幸運のシンボルなど存在しなかったのだ」

このことは、我々が有限な実体であり、我々は死なねばならないということを知っているのに対して、また我々は無限が存在し、神が実在することを知っているということを意味するのでしょうか?


ホルクハイマー:いいえ、そのようなことを言うことはできません。我々は神の存在を証明できないのです。我々の放棄の意識や我々の有限性の意識は神の存在証明ではなく、明確な絶対者が存在しているという希望だけを生み出すのです。どのみち、この世界の苦しみを、不正を目の前にして、全能かつ慈悲深い神の存在に関する教義を信じることは不可能なのです。

人間の放棄はただ神についての思惟を通じてのみ可能であって、神を絶対的に確信することによってでは不可能である、ということははっきりと言えます。


グムニオール:放棄の意識が人間のうちに神についての考えを生じさせますが、ホルクハイマーさんの考えでは神はどのようなものなのでしょうか?


ホルクハイマー:我々が何も神について一様に述べることはできないということを私は言いたいのです。これは、およそあなたが推測しているように、ただ私のユダヤ教に起因している主張というだけでなく、批判理論の根本原理であります。我々は絶対的なものを描き出すことはできません。我々が絶対的なものについて話すとき、実際に我々はほとんど絶対的なものとして述べることはできていません。我々が生活している世界は相対的なのです。しかし、あなたは未だ何か他のことを私に言わせようとしています。我々が神は存在するという絶対的な意識を持っているならば、そのとき人間を放棄するという我々の自覚は欺瞞であるだろうし、我々は実際にこのような自覚を持ち得ないでしょう。


グムニオール:あなたはユダヤ教の言葉を用いています。批判理論との関連はどこにあるのでしょう?


ホルクハイマー:例えば、敬虔なユダヤ教徒が「神」の言葉を書き記さねばならないとき、彼は躊躇います。「言葉で言い表せないもの」が彼にとって神であり、「神」は言葉のうちに現れさせることすらしないため、「神」の言葉を書き表すために彼は省略符(“”)を与えます。


グムニオール:しかし、神を描くためのこのような畏怖の念はそれでも、聖書にあるようにシナイの丘の上でモーセに告げられた神的な戒律に後退します。汝は神の像を作り出してはならない、と。


ホルクハイマー:それは自然なことです。しかし、我々はなぜこのような戒律が存在するのか疑問に思うべきではないのでしょうか?ユダヤ教を除く他の宗教はこのような定めを知りません。

私は、ユダヤ教において神が存在するようなことが問題なのではなく、人間が存在することが大いに問題であるからこのような戒律があるのだと思っています。

私はポール・クローデルとアンドレ・ジッドとの往復書簡を念頭に置いています。この往復書簡は、クローデルがジッドにキリスト教に改宗するよう試みたものです。ジッドはクローデルに宛てて、キリスト教の教義を信じることは不可能であると手紙を書いています。そして、クローデルはジッドに考えを送っています。すなわち、キリスト教を正しく信仰しないのならば、教会へ行き、定められたことを全て行え、さすればキリスト教はすでに正しいものになっていくだろう、と。

数千年間ずっと規則が維持し続けてきたユダヤ教徒も同様に考えています。あるラビは次のことを好んで述べます。つまり、休息のうちに私に信仰を認めよ、しかし、決められたことは行うべし、と。

また、カトリックにおいて行為は信仰よりもさらに重要な役割を演じていることから、ユダヤ教はプロテスタントよりもカトリックの方に近い位置にあります。実際、信仰の概念は唯一の選択肢として一方に科学、他方に迷信に重きをおかせないためにプロテスタンティズムをでっち上げています。宗教を維持するために第三の選択肢である信仰を発見させていたのです。

断じて、ユダヤ教のためにこのような問題があるのではありません。規則は敬虔なユダヤ教徒の全生活を決定しています。これはユダヤ人を結びつけていました。なぜなら、ユダヤ教徒が生まれる場所と全く同様に、ユダヤ教徒の同信者は彼らの戒律に従って生活しているからです。


グムニオール:つまり、私がユダヤ教を先鋭化する必要があるとき、統一的な態度や行為というのが決定的になるのですね。神が存在するか否か、私がユダヤ教を信仰するか否かというのは重要ではないのですね。


ホルクハイマー:それが弁証法的に見られることは重要であり、同時に重要でもないのです。私がすでに述べたように、我々は神について何も述べることはできないことから、弁証法的に見られることは重要ではないのです。そして、全能で慈悲深い神が存在しているキリスト教の教義は、数千年以来この地上を支配していた苦しみを前にしてほとんど信頼に値しなくなっています。

そして、神学があらゆる純粋で人間的な行為の背後にあることから弁証法的に見られることは重要であるのです。アドルノと私が『啓蒙の弁証法』の中で書いたことを思い出してください。そこでは、弁証法的に見られることが十分に考慮されていないとき神学をそれ自身のうちに維持していない政治は、それが不器用でありうるように、最後の取引の終わりまでとどまり続けるのです。


グムニオール:では、そこで神学は何を意味しているのでしょうか?


ホルクハイマー:私はそれを明らかにしようと試みるつもりです。道徳的な政治は実証主義の立場からからは導き出されません。憎しみが存在することは、あらゆる社会的機能的な相違でもって純粋学問的に愛よりも悪であるとみなされていません。私が憎まざるを得ないものであり、論理に適った、強制的であるような理由づけは存在しません。私がそれを通じて社会的な生活のうちで不利益を被らないのならば、ですが。


グムニオール:つまり、私があなたを正しく理解しているのならば、実証主義者は意識のうちで例えばゲオルゲ・オーウェルズに伝えることができるのですね。戦争は平和のように良くも悪くもあり、自由は奴隷や抑圧のように良くも悪くもある、と。


ホルクハイマー:まさにその通りです。では、このことが私にとって楽しみであるときに私が憎む必要がなくてもよいことには厳密にどのような理由があるのでしょうか?実証主義は、人間が善い行為と残虐な行為、強欲と自己没入を分類する超越的な裁判所であることを見つけていません。また、論理は無言でとどまり続け、道徳的心情に優先を認めません。来世を考慮する代わりにこの世の思慮深さに基づいて人間を根拠づけるあらゆる試みは(カントでさえ常にこの傾向に抵抗していたわけではありませんが)調和した欺瞞に基づいているのです。道徳と結びついているすべてのものは結局、神学に後退します。そして、少なくとも西洋諸国のうちにあるあらゆる道徳は、慎重に神学を枠に囲むために尽力もせねばならないように、神学に基礎を置いています。


グムニオール:再びホルクハイマーさんに問います。神学はそこでは何を意味しているのでしょうか?


ホルクハイマー:そこで神学は堕落を目指し、神的なものの学問を象徴することもなければ、神の学問を象徴することも決してありません。

そこで神学は、世界が現象であること、世界が絶対的な真実ないし終焉ではないということについての意識ではありません。神学は(私は意識的に慎重になって述べますが)、世界が明らかにしているこのような不正のもとに意識がとどまり続け、不正が最後の言葉にならないで済む希望であります。


グムニオール:神学は希望の表現なのですか?


ホルクハイマー:私は好んで述べたいと思います。憧れ(Sehnsucht)とは、殺人者が無実の犠牲者に打ち勝ち得ないものの表現です。


グムニオール:これはキリスト教的ではないですね。キリストでさえ正義を当てにし、善人のために悪人や幸福な出来事を処罰することを当てにしています。


ホルクハイマー:ですが、原始キリスト教と原始ユダヤ教とには決定的な違いがあります。キリスト教の殉教者はあらゆる恐ろしい苦悩を甘受していました。というのもその殉教者は、永遠の浄福への短い通路がとりわけ重要であるということに彼が個人的に関与しているこの通路だけが殉教者の現世の存在であるということを信仰していたからです。

ユダヤ教の殉教者は全く異なります。少なくとも彼は、個人的に対自的な何かに届くことを必然的に信仰していたのではなく、彼の民族の中で引き続き生きていくための信条を持っていたのであります。ユダヤ教の殉教者は彼の生を自身の救済のために捧げたのではなく、民族の救済のために捧げたのです。

ユダヤ教において単独者はキリスト教のような偉大な役割を行いません。あなたが旧約聖書を読むとき(私はとりわけモーセ五書の冒頭を念頭に置いています)、一義的に民族を区別することができず、「汝」という語は諸個人と同時に全民族にも当てはまるということを見出すのです。

しかしまた、それは、「汝の隣人を汝自身のように愛せ」という訳が完全には正しくないということではなく、その訳が実際に言われねばならないということを徹頭徹尾可能にしています。そして、私の学生たちの一人が「汝のごとく汝の隣人を愛せ」について学位請求論文を執筆しました。


グムニオール:しかし、それでもキリスト教はそれ自身の要求を維持するために、すべての人間が救済に到達する宗教が存在するために民族、とりわけ決まった民族との宗教的なつながりを断ちます。それどころか、原始キリスト教においては他民族に伝道せねばならないか否かに関する論争が存在していました。


ホルクハイマー:その通りです。そういうわけでキリスト教もまた、一連を容認せねばならなかったのです。

ギリシア人とローマ人は(一つ例を挙げるならば)多神論者、つまり多くの神々を信仰していたのです。それに対してキリスト教は、一つの神だけが存在し、その神は三つの人格の中でとてつもなく重要であったと主張していました。

キリスト教は、少なくとも最初は、ユダヤ教を広く伝播させるための試みであったと私は考えています。そういうわけで特にキリスト教は、この妥協を他の諸民族の宗教的な概念でもって終わらせるために重要であったのです。そして、一様に一神教を多神教と結びつけるための試みがそれら概念のうちの一つでありました。


グムニオール:ユダヤ的な一神論を概念に結びつけるための試みに先立って教義が三位一体、つまり三つの人格と一つの神のものであること、キリストが神の子であったことをあなたは信仰していないのですか?これはキリスト教にとってとても重要であります。というのも、神の子としてのキリストは、この世界における善が神に由来していなければならないという証拠を展開していたからです。


ホルクハイマー:三位一体の教義、神の子としてのキリストを厳格なユダヤ的一神論に取り入れるための試みであった、と言いたかったのです。しかし、私はあなたの第二の発言に細部にわたって同意したいと思います。

あなたは、善は神に由来せねばならなかったということを言っていました。私はそれに(そして確かに正当的−ユダヤ的のように正教的に)、善が単に神に由来していないという抗議ができます。というのも、ユダヤ教徒のようなキリスト教徒は、神は神の似姿に似せて人間を創り、それが理由で人間は自由意志をもつということを信仰しているのです。人間が善を為すとき、彼はそれを自由意志から行い、それと同様に彼は自由意志から神に由来しない悪を行うのです。

ユダヤ教とキリスト教のような両宗派においてこの尊大な教義は(そこで私はショーペンハウアーの言葉を引き合いに出しますが)キリスト教の教義である原罪に由来しています。この教義は従来の歴史を決定し、今日の思想家たちにとっての世界を決定しています。この教義は、神が自由意志から人間を創り出したという前提のもとでのみ可能であります。

人間が行った最初のことは、楽園でこのような大罪を犯したことであり、これに基づいて人間の全歴史は本来ならば神学的に表明しなければなりません。


グムニオール:あなたはショーペンハウアーについてのこのような見方に共感しますか?


ホルクハイマー:加えて私はこの点ではショーペンハウアーの信奉者です。また、原罪の教義は宗教において主要な理論です。

しかし、原罪が今日失ってしまった社会的機能を宗教は持っていました。詳しく言うと、宗教が述べていたのは次のとおりです。すなわち、汝が宗教の意識のうちで善をなすのならば、汝は報われるだろうし、汝の魂は浄福のうちに入り込むだろう。もしも汝が悪を為すのなら、もしも汝が罪を犯すのならば、汝は裁かれるであろうし、そのとき地獄が汝を待ち構えるだろう、と。これを当然ながらショーペンハウアーは否定していましたが、彼はいくらか似ていることを述べていました。彼にとって、悪を為し、自身の生への意志でもって他の個人の意志を否定し、他人の幸福を犠牲にしてまで自身の幸福を追求するそれは、任意の方法の中で以前の生を自覚することなく再出されるのです。実際の純粋な殉教者のように他者の苦しみは彼自身の苦しみのようにすぐ近くにあり、共苦や共喜を感じることができるまで、ショーペンハウアーはあらゆる苦しみそれ自身を味わい尽くさねばならないのです。

今やあなたもまた、ショーペンハウアーが原罪を最も偉大な教義と名づけた理由を理解できるでしょう。自らそれ自身を肯定すること、他の個人の否定はショーペンハウアーにとって文字通りの原罪であるのです。


グムニオール:私を驚かせたあなたの発言に再び立ち返ろうと思います。あなたは、宗教はその社会的機能を失わせるための概念のうちにある、と言いました。私には率直に今日、宗教というのは技術時代において社会的機能を探すことを試みているように見えます。プロテスタントと同様にカトリックの側も宗教を自由化するという目標をもった新たな神学を意図していると私は考えています。


ホルクハイマー:宗教の近代的な自由化は私が見る限り、宗教の終焉へと向かっています。しかし、それは意識的であれ無意識的であれとにかく、機能している政治に神学の自由化が歩み寄っているということを説得的にさせています。譲歩し、妥協し、科学と結びつけています。しかし、それにもかかわらず科学は、地上が最小の原子であること、永遠の宇宙に浮いている球であること、白く覆われた球であることを我々に多くは語りません。


グムニオール:あなたの考えは宗教を基準にして再び戒律と禁止に戻ってくるのではありませんか?あなたの考えは善に楽園での浄福を、悪に地獄を約束するものではありませんか?


ホルクハイマー:いいえ、私の考えはそうはなりません。ただ、私の考えは人間に、人間が永遠の本質であること、人間は苦しみ、死なねばならないことを意識的にもたらします。しかし、苦しみや死を超えて憧れ(Sehnsucht)があるというこの現世の存在は絶対でも終焉でもありえないのです。

ただ場合によっては、私が失ったと考えている宗教の社会的機能のもとで理解してきたことは、私が数年前に書いたものを通じて明らかになるかもしれませんが。

神の概念の中で長時間に及ぶこの理解は、自然と科学がその効果のうちに表現しているものとは異なる尺度が存在するということを保存しています。超越的な本質を認めることは、現実の宿命とともにある不満からその強大な力を得ます。無限に続く世代の願い、憧れそして告発は宗教に書き留められます。しかし、キリスト教の中で、この世の出来事とともにある神による統治が調和をもたらせばそれだけ、このような宗教の意識は反転するのです。すでに現実の秩序の創造主よりも重要な見地から、神はカトリックに重きをなしており、プロテスタントは全能の意志へまっすぐ世の成り行きを退行させています。それが原因で、神聖な義の輝きを備えたその時々の現実の支配だけが変容しているのではなく、それ自身が現実の腐敗した関係によって衰えているのです。キリスト教は同様の諸尺度の中で諸理念に表現を付与するための文化的な機能を失うのです。まるでキリスト教が諸国家の同盟になってしまったように。


グムニオール:率直に、これは今日の現代神学を拒否しています。教会は社会の批判的裁判所の役割を担おうとしており、少なくとも教会はそのような行為をする統一された神学を望んでいます。もはや悪しき現代の情勢によって信者は超越的な楽園とともに忘れ去られることもなく、教会は革命の担い手となるのです。


ホルクハイマー:私はこのことが評判を落とすことは全然ないと思っています。しかし、あなたは今、教会のことを話しており、私は宗教について話しています。宗教が断念されようとするとき、宗教は世俗化されることはありません。教会の目下の議論が宗教を維持していくというのは無駄な希望です。その議論とは、宗教がその根源において活気付いていたような議論、すなわち善なる意志、不幸の連帯、より良き世界に続く死はそれらの宗教的な装いを投げ捨てているという議論です。


グムニオール:つまり、宗教にとって憧れだけが無限のあとに残るのですか?


ホルクハイマー:完全無欠な正当性を目指した憧れ、これは世俗化された歴史の中では決して実現されません。つまり、仮により良き社会が現在の社会の混乱を弁済したとしても、過去の苦しみは良くならず、苦境は周囲の自然のうちに止揚されません。


グムニオール:先ほど我々は、神学は純粋な人間的行為の背後にあること、希望のうちにあるあらゆる道徳は神に基礎を置いていることを話しました。しかし、このような憧れは道徳的行動を可能にするに足りうるのでしょうか?我々は、私が考えるに、再び我々の中心的テーマに立ち帰らねばなりません。アドルノの還暦記念論文であなたは次のことを述べていました。すなわち、「神なき絶対的観念を救い出すことは無価値である」と。これは、道徳的行動は神を引き合いに出すことができるものでなければならないということではないのでしょうか?


ホルクハイマー:いいえ。というのも、我々は神を引き合いに出すことなど不可能だからです。我々は、我々に絶え間なく善悪の事柄を咎める全能神が存在することを主張できません。

しかし、差し当たって再び私は憧れについて話すに至ります。あなたは、私が1933年からの私の論文をあなたに示しているとき、なぜ私が憧れにそこまで重点を置いているか理解するのかもしれません。当時、私は、自身が今日に至るまでほとんどしかるべき事柄について改めてこなかった世界の象を描くということを試みていました。

巨大な経済的権力集団の世界基準のうちで消された戦いは、善良で人間的な構成のうちに、内外の虚偽を動員することのもとに、途方も無い憎悪の解決のもとに導かれます。人間性は市民の時代に豊かになり、認められた目標設定のもとで統一的に存在できる偉大な自然的で人間的な補助を支配します。このような至る所で光を通す事態を覆い隠すための必然性は、国際関係にまで及ぶだけでなくそのうちにまで私的に入り込んでいく見せかけの領域を、科学を含む文化的な努力の減少を前提にしています。つまり精神的な苦痛がなおも物質的な生と道連れになることは、個人的かつ公的な生を野蛮化するのです。人間の貧困が現在よりも際立った対立の中で可能な資源に存するということは決してなく、子供たちが飢え、父親の支配に爆弾を仕向けるこのような世代よりも残酷にあらゆる諸力が魅了することは決してないのです。この世界は災禍に近づいていくように見えるか、ほとんどすでにその災禍のうちにあるように見えるかのどちらかです。その災禍は、我々の熟知している歴史の内部でのみ、古代の没落と比べられうるのです。個々の運命の無意味な言動、つまり理性の欠如ないし単に生産過程の自然さを通じてすでに早くから前提されていた無意味な言動は、現在の局面で現存在の最も強力な印を高めるのです。あらゆる無意味な言動は盲目な運命を放棄します。

そういうわけでこのような憧れは完璧な正当性を目指していくのです。


グムニオール:あなたは、我々が神を引き合いに出すことはできないと言い、我々は有限の実態に過ぎないということしか述べられないと言いました。しかし、有限性は無限についての知識なしに理解しうるのでしょうか?


ホルクハイマー:いくらか有限性についての知識がなくとも、我々は十分に自身の有限性を認識できます。我々は限界の標識として、我々の制限された符号として苦しみや死を経験できないのでしょうか?我々は来る日も来る日も、我々が自身になることを経験することはできないのでしょうか?我々が全くなにもできない事柄を通じて我々が存在するようになるにはどうすればいいのでしょうか?

そのために私はあなたにある例を提示しようと思います。ある小さな子供がその腕を母親に倣って伸ばし、そのとき母親は彼に対して冷淡で冷ややかに誤った動きとともにその要求に応じたとします。そのときこれは子供の性格を、彼の後の世界への態度を決定的に形成します。すなわち、その子供は驚き、彼自身の中に引き篭もり帰ってしまうのです。


グムニオール:再び私の問いへ戻ります。道徳的行為はどのようにして可能になるのでしょうか?


ホルクハイマー:我々は神を引き合いに出せません。我々はただ神が存在するという内なる感情とともに行為するだけなのです。しかし、これは道徳の唯一の源泉ではありません。また私も、自身の実質的な行為が私の唯一の生に対して快をもたらす意識的な希望の内にせよ無意識的な希望の内にせよ、人間に対して何か善を為すのです。


グムニオール:これは、私がとある高等裁判所が私の実質的な行為に報いることを望んでいるという意味でしょうか?


ホルクハイマー:いいえ。何か実質的なものは、他なるものにとってのこのような行為から、私にとっての他なるものによるこのような没入から生まれるということはしかし、他の人間がこのような行為についての喜びを持つか否かに依存しています。私の行為についての人間の実質的な反応や喜びは最初に私自身の生をより美しくします。愛や友情を考えてみてください。もし人間が他に幸運であるのなら、私もまた幸福なのです。

それゆえ、実質的なものは、私の行為が他の人間に対して決定権を持ち、私の行為に我々が道徳と名づける性質を付与する思考、神についての思考を必ず必要とせねばならないというものではありません。それは理屈抜きで、仮に私が他の人間のために犠牲にせねばならないとしたときに、私の生が他なるものの反動を通じて美化される事実であるのです。

私が今日、自身の結婚を回想するとき、私はこの結婚の多くの美しい成り行きがたった今しがた述べた事実に基づいていることを述べなければなりません。もちろん、そのとき私の結婚は、ただ私の妻がその生を私のために捧げてくれただけでなく、彼女が私自身のために最高の人になってくれたということを具体化していました。また、このような経験はなぜ私が批判的に現在における性愛の生活を即自的かつ必要不可欠に解明することを考えるのか、ということに基礎があります。


グムニオール:ホルクハイマーさん、あなたは多くの教え子や友人がローマ教皇の回勅を義認しようとすることに対して少しも驚きませんでした。その回勅においてローマ教皇はカトリックに人工的に生み出された手段の利用を禁じました。それにもかかわらずローマ教皇は神的な戒律を引き合いに出したのです。あなたが禁止を擁護することは一体、何に基づいているのでしょうか?


ホルクハイマー:私は批判理論家として述べましたが、批判理論は二重の課題を持っています。一つは変化されねばならないことを示すこと、しかしもう一つは保たねばならないことを記述することです。そういうわけで批判理論は、我々があれこれの措置の、あれこれの進歩の代償としての対価を支払わねばならないということを示すための課題を持っているのです。我々はピルにエロティックな愛の死でもって支払うのです。


グムニオール:それはなぜです?


ホルクハイマー:愛というのは憧れ、とりわけ愛人に対する憧れに基礎があります。愛は自由気ままな性的なものに由来があるのではありません。愛する人間と一緒になったあとに憧れが強くなればなるほど、それだけ愛は強大になっていきます。ただ性的なものの禁忌を保存しても、その限界は破壊されます。憧れが広範囲に生まれ、次いでその土台である愛が無くなるのです。


グムニオール:そしてこれはピルを通じて起こることだと?


ホルクハイマー:そうです。ピルは『ロミオとジュリエット』の美術館の一部を作り出します。あなたは私に次のことについて徹底的に言わせしめるのです。つまり、今日ジュリエットはロミオに、彼女がわずかに素早くピルを用いようとし、次いでそれを手にいれることを明らかにするのです。


グムニオール:しかし、第三世界すなわちアフリカ、アジア、ラテンアメリカの発展途上国や人口過剰のダモクレスの剣を顧慮すると、ピルは進歩していないのでしょうか?


ホルクハイマー:私はこのことを否定しようとは思いません。しかし、我々がこの進歩のために対価を支払わねばならないということを人間にはっきりさせるという私の義務のために、私はこのことを保持しています。そして、この対価は憧れの喪失を加速させ、最終的に愛の死となります。


グムニオール:我々の会話は、何度も憧れの周りを循環しています。あなたもアドルノも多なるものに従って憧れを口にしていました・・・。


ホルクハイマー:私はちょうどこの前、次のことに注釈を加えようとしました。すなわち、形而上学に憧れは、カントによって古典的に公式化された批判が故にあらゆる諸現象に即して適用され、憧れは、意図的に超過している絶対的なものの現象を示すことができるようになるべく現象の根底に横たわっている他なるものに価値を与えます。そのような理念の具体的なもの、とりわけ神学も、そして偉大な啓蒙家による少なからぬ神学も公然と肩を貸していた全能かつ慈悲深い神の存在というのは、絶対精神や普遍的意志、もしくは無として論理的に厳密に基礎づけられるべきではないのです。どれほど現象の世界を超越しているものが肯定的ないし否定的に無制限なものとして自己を具現するとしても、次のことは認識と矛盾しています。つまり、悟性によって承認されたあらゆる現実というのは主観の知的機能に基づいており、かくして現実それ自身は現象を疑う契機として把握されねばならない、ということです。


グムニオール:ホルクハイマーさん、今日では神学は批判理論の内に隠されているのかどうか、ということについて非常に激しく議論されています、この問題に「はい」と答えることはできるのでしょうか?


ホルクハイマー:批判理論は少なくとも神学、すなわち他なるものについての思想を含んでいます。これは、理性的すなわち正当な社会を創造するための試みが拒否されているということを意味しているのではありません。かろうじて、私が既にしばしば口にしていたような比較的正当な秩序もまた、自由を制限することでもって償われている、ということが最後なのではなく、ただ存在し続けているもののもっともらしい秩序、他なるものの下で無意味な残虐行為を廃止することだけが存在している、ということらしいのです。

しかし、宗教の没落が社会革命の始まり、そして生のより良い形成への願いとほとんど同時に進行していることは注目すべきことです。死人が復活すること、最年少者の法廷そして教義上の措定としての永遠の生の諸理念が否定されることで無限の浄福への人々の欲求というのは完全に明らかとなり、信仰心が薄く世俗的な境遇とは対照的に突き進んでいくと、私は考えています。


グムニオール:カール・マルクスはそのことからプロレタリアートの階級闘争や独裁支配についての理論を展開させましたね。


ホルクハイマー:神は表現不可能ということ、しかしながらこの非-表現可能なことが我々の憧れの主題であることは、私にとって主要な題目であり続けている間、ずっとマルクスはユダヤ教のメシアニズムについての私の予感を規定していたのです。

そういうわけでやはり私は次のような確かな困難を抱いています。すなわち、私が他の地域の代わりに、イスラエルにおけるユダヤ教圏国家の基礎を判断せねばならないようなことです。しかし、聖書においては、メシアがエルサレムを目指して全ての民族の正義へと導くであろうということが問題であるのです。依然として私は、私が肯定しているイスラエル国はこの予言そして今日の予言を厳密に解釈せねばならないようなことを熟考しています。イスラエルは聖書上のエルサレムであるのでしょうか?

諸物が存在するのと同様に、解決策というのは、イスラエル国にき関わらず(予言の一員である)ユダヤ人を迫害することが進行しているということの内にあるように思われるのです。今日、イスラエルはユダヤ人が恒常的に苦しめられていたような窮迫した国です。それゆえにイスラエルは肯定されねばならないのです。私にとって、次のことは決定的です。すなわち、イスラエルは多くの人間にとっての避難所であるということです。しかし、それでもやはり今日、そのことを古い契約の予想とともに率直に調和にもたらすということは容易ではないように思われますが。


グムニオール:ホルクハイマーさん、以前に我々は批判理論の内にある秘密神学の手がかりを掴もうとしましたし、道徳行為のための部局を見つけ出そうとしました。このような部局は良心でいることはできないのでしょうか?


ホルクハイマー:良心というのは完全にそのような部局に限定されています。今日すでに良心が問いの内にあるということを恐れている、と私は意識的に述べます。

フロイトは、人間の良心というのは父親の権威を通じて生まれると教授しています。子供達が次のことを父親から毎日聞くことによって。「勤勉でいろ!真実を話せ!正しく行為せよ!」と。このような格率は子供達の魂に入り込みます。最終的に彼らは父親の声を自身の声として聞き取るようになるのです。

そして、思春期において子供は父親に反抗して、彼自身が要求するようになります。「お前はいつも真実を話し、いつでも勤勉であり、いつでも正しく行動しているのか?」と。子供はとても多くの状況の中で葛藤しています。息子が思春期を乗り越えさえすれば、その息子は、この世界の中でいつも真実を話さず、いつも直接に要求が生じるこものを為し得ないことを試みようとします。こうして息子は成長していくのです。


グムニオール:しかし、その始まりはどこにあるのでしょうか?なぜ「最初の」父親は「真実を言え、正しいことを為せ」と言うのでしょう?どこから彼はこのような格率を引き出してくるのでしょうか?


ホルクハイマー:もちろん、その点で宗教は決定的な役割を果たしています。しかし、そうはいってもこうした良心の形成が今日、危険にさらされていることはとても重要な点です。多数の社会学的、心理学的そして技術的変革によって、とりわけピルを購入することができる市民的家族ではしかしながら、父親の権威が揺るがされ始めています。このことから偉大な帰結が結果として生じると私は信じています。父親の権威がほとんどそれ自身、初期のようでなくなった良心は他の役割を果たせるのでしょうか?もしくは、そのような役割というのは総じて形成され得ないのでしょうか?今日、総じて探求されている問いはこれです。このような状況が故に、家族が今日かつてのような意味をともはや持たないことは、我々の社会的な生活を完全に決定的に変化させたと私は思っています。

ある程度適合した代用品でさえなしに、父親-神話の崩壊というのは、社会的現象としての良心の存在の内にあるのです。

働いている母親は、人生の課題が子供の教育であった母親とはいくらか完全に異なっています。職業は母親の思想を具体化します。さらに、何か他のことについてもこのことに行き着きます。母親は同等の権利を持っています。母親は例外なく、も依然としてもはや愛を発することはありません。今日まで、母親は完全なものとして彼女の自然を保持していましたし、彼女の言葉や身振りから愛を発していました。彼女の意識的ないし無意識的な反応(私が挙げた例を思い出してください)というのは、教育において決定的な役割を果たしていました。これらの反応は、命令よりもより決定的に子供を形作っています。


グムニオール:このような動向の歯車を巻き戻すことはできないのでしょうか?


ホルクハイマー:私はこのことから出発します。こうしたプロセスを逆戻りすることはできません。というのも、例えば核戦争のようなものは恐ろしいカタストロフによるものだそうだからです。しかし、(私が批判理論の下で理解しているものを何度もそこで明らかにしていますし)このようなプロセスの否定的性質を明らかにすることによって、失われるものから何かを守ることはできます。

ただ、あなたに引き続き例を挙げるとすれば、スイスでは女性の同権をめぐる絶え間のない闘争が白熱しています。ニーチェが、女は同権とともに彼女のもつ最も大切なものを失うと言ったとき、彼は全く正しかったのだと私は思っています。その最も大切なものとは、単なる道具的思考ではないものが具体化し得ないということです。


グムニオール:ですが、批判理論家はそのことによってドン・キホーテの悲劇的な役割を果たせないのでしょうか?それでも批判理論家は発展というもの、あなたが歴史の内在的な論理、我々がそれでも語るに至る内在的な論理と呼ぶものに対して戦いを挑んでいます。批判理論家は、自身が体験することによって生じた、起こりうる変革というチャンスを一度も手にしていません。


ホルクハイマー:このような問いは心理学、哲学、そして神学的に異なる手法によって答えられねばなりません。神学的にお答えしましょう。

そういうわけで、私は簡単にではありますが、規定された発展の否定的な影響を明確にするよう試みます。というのも、仮に私が自身の側に神を引き合いに出すことができなくとも、愛は憎しみよりも善いということ、それとともに私は要請に注意を払うということを私は信じています。そして、このことは私にだけ当てはまるのではなく、全ての人間に当てはまるのです。


グムニオール:このことは次のことを明らかにするかもしれませんね。つまり、社会のために何かを行おうとした若干の名前を挙げるとしたらリープクネヒトやローザ・ルクセンブルクといったプロテスタントの革命家の背後に、また、彼らの理念の勝利を体験することがない意識の内に、またこういった意識の背後に神学があるということです。あなたは、人間への愛から神学を成そうとしました。


ホルクハイマー:人間への愛ゆえなのです。そして、今や我々は再びユダヤ教が注目に値するという点に戻ってくるのです。つまり、他なるものとの同一化ではなく、いくつもの他なるものとの同一化についてです。私は他なるものの運命に関心を持っていますし、死後も生き続けるだろう人間性の一部として自分を理解しています。

私が私について考えているとき、私はこのような人間性の一部としての私を考えています。

なので、いつの時代の殉教者や啓蒙主義者も自己を放棄すると同時に、他で生き延びようとしていたのです。

このような立場からして再び批判理論との関連を明らかにすることはとても重要です。哲学の真の社会的機能は存在しているものの批判の内にあります。あたかも哲学者があれこれの隔離されて用いられた状況を嘆くように、そして排除を推奨するように、存在するものは固有の理念や状態についての表面上の小言を明らかにすることはありません。このような批判の本来の目的は、人間の現在の構造の内にある社会が人間に植え付ける理念や行動様式に沿って人間は消えていくということを妨げねばならないということにあります。人間の個人的な活動とこの活動を通じて達せられるものとの間の関係、人間の特殊な実存と社会の普遍的な生活との間の関係、人間の日々の計画と彼らが認める偉大な理念との間の関係を識別することを人間は身につけようとします。


グムニオール:人間は、あなたが歴史の内在的論理と呼ぶものを前にして、そして管理された世界についてのあなたの陰鬱な未来像を前にして、幻影として姿を現すことはないのでしょうか?


ホルクハイマー:差し当たり当分は、私が今日理解しているのと同じように歴史の内在的論理というのは実際に管理された世界へと進んでいくことでしょう。技術を具体化する力、人口の増加、弛むことなく構造化された集団における個々別々の国民の止まることを知らない組織化によって、そして権力ブロック間の無慈悲な競争によって、世界の完全な管理化は不可避になるように私には思われるのです。科学技術とともに人間は、自然の恐るべき諸力を屈服させてきました。もしこのような力(例えば核エネルギー)が破壊的な作用を及ぼさないとしたら、その力は実際に合理的な中央管理化によって監視の中に連れ戻されねばならないでしょう。(他の例を挙げるならば)近現代の薬学というのは、ピルによって人間の生殖能力を手際よく操作できるようになりました。また、いつの日か我々は血統管理を必要とすることになるでしょう。

加えて、人間が自身の能力をこのように管理する世界の内に自由に具体化できるようになるのではなく、合理的規則に沿って自身を世界に合わせることになるということを私は信じていますし、結局、人間はこのような規則に直覚的に屈服していくのです。このような来るべき世界の人々は機械的に振る舞うようになるでしょう。すなわち、そのような人々は赤信号のときに立ち、青信号のときに進むのです。人々は記号に服従するようになるでしょう。

個人は常に縮められたルールを実行するようになります。19世紀という自由主義の時代では、未だに多くのことを個々人つまり人格に任せていました。個々人は巨大事業を適切な責任の内で管理していました。また、歴史の中にも人格はなおも存在していたのです。しかし、すでに今日、他の人間に交換するために工場管理局の構成員と長官を交換することは比較的容易であるのです。


グムニオール:では、自由意志からは何が生まれるのでしょうか?


ホルクハイマー:我々は意志を人間による、例えばミツバチやアリによる、つまりこの地上の多くの他の存在者によるような方法で探求することができるようになるでしょう。


グムニオール:そうだとすると、管理された世界の中で自由意志は存在することはないということでしょうか?


ホルクハイマー:私はあなたの問いかけにて懇切丁寧に答えることができません。しかし、今日すでに現今の歴史的発展の内在的論理というのは、それがカタストロフによって妨げられない限りで、自由意志を止揚することを示しうると言うことができると、私は思っています。


グムニオール:このような答えは没落の暗い気分のように聞こえますね。

ホルクハイマー:私はこの答えを制限したかったのです。ヨーロッパの文明は、次の世紀に続くためにほんの僅かしかない望み、十中八九まったく存在しえない望みを目論んでいるだけなのです。それにもかかわらず、しかしながら、管理された世界もまた、ポジティブな側面を持つことになります。それは、人間の物質的欲求は守られうるという側面です。


グムニオール:しかし、管理された世界についてのあなたの判断は、とてもネガティブかつペシミスティックな判断であるように思われるのですが。


ホルクハイマー:その判断はただペシミスティックであるだけではないと言いたいです。おそらく、独占的でないような技術的進歩を生み出す諸力は管理された世界でも具体化されうるでしょう。まず第一に、正義、世界のこカオス化した状況によって生じた対立の解消、そしておそらく万物の連帯という点に目を向けています。


グムニオール:それでも、管理された世界が到来するのは確実なのでしょうか?


ホルクハイマー:こう言いましょう。発展のプロセスというのは、恣意的にある瞬間になると退行していく、ということにはなりません。というのも、実際に手段の領野におけるあらゆる存在領域を総じて変化させることは、結局、そのような変化を扱おうとする主体の精算に向かっていくからです。こうしたプロセスを逆行することはできません。変化を自身の否定性の内で可視化することによって古いものから何かを守ることを試みることしかできません。

正義と自由はもう一度弁証法的な概念となるだけです。正義が増大すればそれだけ自由は縮小し、自由が増大すれば、それだけ正義は縮小していきます。自由、同一性、友愛、これは素晴らしいスローガンです。しかし、あなたが同一性を保持しようとするなら、そのときあなたは自由を制限せねばなりません。そしてあなたが人間を自由にしようとするなら、そのとき正義は存在できません。我々はその中でリベラリズムを話題にします。それに向かって、私はなおも何かを語りたいのです。マルクスは未来の目的として個性を全般的に拡張することを描きました。しかし、こうした拡張は一様にリベラリズムの時代の産物、リベラリズムとともに消えていく産物であります。自己を保存することが全く存在しないのに対して、この時代の主題は自己保存であるのです。


グムニオール:発展それ自身を内在する論理の社会を発展させることが基礎にあるのならば、個々人のための適合の強制が恒常的に強大になるのならば、個人の役割が常に縮小するのならば、そのとき有用性は、どのようになおも社会理論を保持するのでしょうか?


ホルクハイマー:ここで、私は差し当たり控えめに申し上げておきます。我々は完全に自動化された世界に住んでいるわけではありません。未だに我々の世界は完全に管理されているわけではありません。仮に多くの物事が後になって追い抜かれねばならなかったとしても、我々は今日すでにそのような多くの物事を成すことができているのです。


グムニオール:ですが、あなたが歴史そして社会的発展の内在的論理と呼ぶものに我々は抵抗することも、管理された世界を阻止することもできないのでしょうか?


ホルクハイマー:いいえ、我々はこれを否定できるのです。しかし、発展におけるす恐ろしい騒乱を避けることはなんとかできるかもしれません。


グムニオール:ホルクハイマーさん、多くの人々にとって製薬の夢は一つの出口にはなりえないということなのでしょうか?


ホルクハイマー:世界を遍く管理することは、麻酔剤が健康にとって害になりうる限りで、その麻酔剤を廃止することになるでしょう。おそらく世界を遍く管理することは危険のない手段を導入するようになり、そのとき世界は退屈なものとなるでしょう。


グムニオール:神学、すなわち絶対的なものへの憧れから遍く支配された世界にかけて何が生じるのでしょうか?


ホルクハイマー:おそらく管理された世界の中でもこのような憧れは存在することになるでしょう。というのも、あらゆる物質的欲求が守られるときでさえ、事実は「人間は必ず死ぬ」ということに留まるからです。そして、まさに物質的欲求が守られるからこそ、この事実は特殊なやり方で人間に自覚させることになるでしょう。次いで、我々が初めに話した人間の真正な連帯ということが生じ、この連帯は全体性の管理の欠点を弱めることに寄与することになるでしょう。


グムニオール:なぜこの世界は退屈なのでしょうか?


ホルクハイマー:神学は廃棄されることになるでしょう。それとともに、我々が世界から「意味」と呼ぶものは消え去っていきます。確かに偉大な活気は支配的です。ですが、こうした活気は本来無意味であり、それゆえ退屈であるのです。そしていつの日か哲学も人間の子供事とみなされるのでしょう。おそらくすでに近い未来、我々がこの対話中であらゆる重大さと関わらねばならなかったものから、超越論的で制限されたものの関係について推察することになり、この対話は愚かしいと言うことになるでしょう。大真面目な哲学は終わりを迎えるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?