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友人の文章について―かえれない平日の成立

私には友人がほとんどいないのだが、数少ないそれと呼べるふたりと、このnoteを続けている。

私を含む三人とも、映画や音楽などが好きで、そしてまた、ほどほどに趣味が分かれている。
飲み交わす度に、評論家じみた態度でくだを巻く。好みは違えど、互いの物言いを信用しているはずだし、私にとってはささやかなサロンだとも思っていて、居心地の良さを感じる。
馴れ合いだとは言わないが、ただそれが勿体ないことは知っていた。

三人とも、出版、テレビ、映画と、人の言葉を借りて表現する職業についた。
皆がその道に進めたことを、少し嬉しく思っていた。

数年経ち、私たちの関係はあまり変わらない一方で、寂しさを感じるようになった。
新しく関係をもった人たちに、自分の頭の中を見せようとも、相づちは空で、すぐあのサロンに戻りたくなる。結局、馴れ合いなのかと、愚な思いも湧いてくる。

このあいだ、久しぶりに三人で飲んだ。
ふたりが先にいて、私が遅れて合流した。

「さっき話してたのだけど」。
皆が互いに、どこか今を満足していないことは知っていた。
noteをやろうと言われた。
自慰行為で構わないから、人の言葉ではなく、自分の言葉を使ってみようと言われた。
浅い酩酊も相まってか、何か変わる気がした。

noteを始めた頃。
短文や写真、ショートムービーで発信することが主流のSNS時代において、改めて長い文章を書くことの楽しみに気づかされた。

投稿が重なるにつれ、友人の文章をよく知らなかったことに気づかされた。
互いの考え方はある程度に知っていると思っていたから、少し面食らった。

ただ、会話には流れがあるし、そこに独白という行為はないから、つらつらと、ひとり語る様子が新しいのは当たり前のことだった。

それが、馴れ合いとは程遠く、心地の良い距離感を感じさせた。

今度こそ、安心して、あのサロンに戻れる気がする。

(文・GunCrazyLarry)

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