ウティット・ヘーマムーン×岡田利規【プラータナー:憑依のポートレート】

ウティット・ヘーマムーン×岡田利規の『プラータナー:憑依のポートレート』を最終日に観てきました。休憩時間を含めて四時間という長丁場、当日券の滑り込みだったので観客席の階段にお座布団を敷いてという尻の拷問だったが身体的な苦痛を上回る静かな興奮がありました。

タイの芸術家の人生・性愛の遍歴が、タイの政治的な変動とともに描かれる本作には、『「あなた」の人生の物語』というキャッチコピーが付されている。題からして「憑依」とある。個人の分散・融解を、演劇と小説においてあの手この手で示してきた岡田利規だが、本作ではその志向がより前面に出ていたように思える。演者は皆タイの俳優で、発話される言葉も全てタイ語だ。そのタイ語+日本語・英語字幕という構成で舞台も広かったから焦点を合わせるポイントに困って、途中まで正直結構しんどかったが見るための要領を掴めてからは俄然興奮した。そもそも焦点の合わせづらさは意図されたものであるはずだ。

字幕で二人称(主人公は「あなた」と語りかけられる)、という舞台空間とテキストの相乗効果が、終盤では如実に先鋭化して、舞台と客席を区切るロープも取っ払われた挙句演者は二人を残して客席の側に腰を下ろすという構図で幕を下ろす。演者が観客に取り込まれるのか、観客が演者に取り込まれるのか。また、場面転換では数年単位の時間の跳躍があるが、本来は幕間に裏方がやる舞台道具の入替は、暗転もせず、演者と裏方が一緒に、シームレスに、一部始終を隠すことなく急がず行う。激動の人生でも、弛緩した時間も訪れる。そしてそこには、一見脇役と思われるような人間も、確実に連関して存在しているのだ。

二人称というテクストの構造や上に見てきた演出的な面においては、見る者と見られる者の回転・交替を際立たせることに成功させていて(しかし英文にはyouがなかった記憶がある。また話されているタイ語も二人称の語りなのかはわからないし、そもそも字幕と台詞の意味が合致しているかも疑おうと思えば疑える)、かなり周到に『「あなた」の人生の物語』を描いているが、内容的にはどうか。というと、かなりの想像力を働かさなければ「あなた≒私(=二十代の日本人)」には到達しない。タイという国との接点を私は持っていないし、大半の日本人がそうだろう。が、想像力を働かせれば「あなた≒私」に確実に届く。例えば政治的な情勢がナレーションと字幕で語られている間、決まって主人公は身体の動きで(発話やそれに対応する字幕はなしに)性愛・欲望を発露させている。政治的な大きなうねりは確かに存在して、しかしそことは無関係な立場を取ることを選択した人間が、しかしアイデンティティを確立することなく当て所ない欲望を噴出させ、その噴出によって自己嫌悪の迷路に陥る主人公の姿は、確実に日本の(世界の)「あなた≒私」に重なる部分があるはずだ。

などとわかったふうな口を利いているがこれは全部後付けであって、観ている瞬間は「わからなさ」に戸惑いを覚えていた。恐らくはその「わからなさ」のうち、簡単に言語化できない部分こそ丹念に掬うべきだろうが、その補助線となる関連書籍については、お金がなくカードも利用不可で買えませんでした、と思っていたことさえ忘れて日々を過ごしていたところ、Twitterに投稿したレビューがレビュー募集大会で選ばれてその関連書籍を貰えることになりました。わーい。「尻の拷問」という文言によってのみ獲得した気もするけれど、普通に嬉しいし、今は猛烈な勢いで岡田利規を読み漁り中なので、将来の私に向けた備忘としても、遅ればせながらnoteにも感想を転載しておく。

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