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教師と「空気」とは その1

アメリカの大学院で教師と「空気」を研究しています。その過程で見えてきた空気の姿の一部をシェアします。ちなみにこれはは先日、世間学会で発表したものの抜粋です。

日本の空気を読むという習慣はかなり一般的に使用されてますが、アカデミアでは息を潜めています(それこそ空気を読んでいる 笑)

つまり、「教師」と「空気」に関する文献はほとんどありません。

しかし、「教師」が「学校の雰囲気」に「左右されやすい」という記述は山ほどあります。教師イメージが強ければ強いほど、バーンアウトの確率が高くなるというのです。

では、教師が左右されやすい「学校の雰囲気」とは何なのか。

ちなみに、このような話は今までの研究では同僚性などが問題にされることが多く、同調圧力へつながる記述が一般的でした。しかし、私は「空気」=「同調圧力」とだけ結論づけるのには否定的です。どちらかというと空気が同調圧力になる前の認識を知りたいと思っています。つまり、誰にも強制されていないのにそれを「同調圧力」と認識してしまうのはなぜか、何がそうさせるのか、どうしてやめられないのか、という日本人の根底にある考え方とその教育における影響を解き明かしたいと思っています。

教師が学校で左右されてしまう、教師イメージとは何なのか。私はそれを学校エトスや学校文化と関連づけて調べました。ちなみにエトス(ethos) は精神、雰囲気など「空気」に近い意味合いがあります。そして、細かいことは端折って一言でそれらが何かというと「自己犠牲」の精神です。明治初期に近代教育システムが導入された時にやや政治的に作られたこのイメージは面白いことに今の時代もまだ続いています。変わっていない。というか変わらない。それは教師がこのイメージやエトスを追い求める努力をやめられないから、そしてやめられないシステムが学校にあるからです。
自分を犠牲にして学校教育に捧げる教師イメージ。そしてそれを学校全体が追い求める雰囲気が学校における代表的な「空気」と言えるでしょう。

私が学校で見つけた「犠牲文化」=美徳の構図がまさにそれだったのです。

働き方ブラックについては改革が叫ばれるようになっていますが、残業をやめらないのは給与制度や仕事量の問題だけではなくこのような日本人を縛って離さない意識の問題でもあるのです。これを早稲田大学の教育社会学者の油布佐和子は「特定の抑圧者がいないのにも関わらず残業を止めることができない病理的症状」(油布, 2010)とよんでいますが、このように目に「見えない」けれど教師の間に「ある」現象について「なぜ」かを考える議論が極めて少ないのが現状で、働き方の問題にしても見落とされがちであると考えています。

私はこの「空気」を日本独特のナレッジシステムだと考えています。
自己犠牲精神は代表的な一例であるだけで、それ以外にもたくさんあります。では、教師はどのようなナレッジ(知)をみているのか。

教師と「空気」とは その2 に 続く!


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