見出し画像

小話~レッテル?それとも看板?~

 私たちは日々の暮らしの中で、様々な肩書を背負っていたり、他者からの評価を背負っていたりする。時にはそれらに助けられ、またある時は、それらの重さに押しつぶされそうになる時もある。学歴を例に挙げてみると、高学歴者と言われる人たちは、就職に有利らしい。学歴と就活は関係ないと言われるが、大手と言われる企業に勤めている人たちが「学閥」と言っている時点で、学歴が有利に働いていてコミュニティを形成していることは言うまでもないだろう。一方で、いざ仕事をしてみると、アカデミックな環境からビジネスの環境に変わったことで、能力を十分に発揮できず、「高学歴の癖に」と言われる事例もあるという。また、別の事例として、「高卒」というと勉強が出来なさそうなイメージを持たれ、「大卒」だったり「大学院卒(通称『院卒』)」と言われる人たちは頭がよさそう、というイメージが一般的なのではないだろうか。学歴1つ取っても、このように肩書の生み出す偏見や固定観念に左右されていることが分かるだろう。

 話は変わるが、私自身やはりこのレッテルに悩まされてきた。私は第二新卒として現在勤めている企業へ転職したのだが、前職で勤めていた会社が「仕事が出来る人が勤めている」というイメージを世間の人々が持っていることもあり、私に対しても同様の期待が向けられた。言い訳にはなるが、私が前職で取り組んでいた業務と、現職で求められる業務との間に大きな隔たりがあった。そのため、業務になれるまでに時間がかかったこともあり、冷ややかな視線を向けられることになった。見事な掌返しを受け、社会の厳しさを知るとともに、私自身を見てくれていたわけではなかったのだな、ということを思い知らされる出来事になった。この点については、面接のときに、実力以上に自分をよく見せてしまったことも要因の1つなので、致し方ないだろう。誰もが『おぎやはぎ』の矢作さんのように、背伸びをしても何とかできるわけではない、ということもまなぶことになった。英語が得意なわけでもないのに、「英語を取ったら何も残らない」と面接で言って、入社後も何とかするというのは、憧れます。

 さて、話が脱線してしまったが、先ほどの私の経験は、『レッテル』に押しつぶされてしまった、雁字搦めにされてしまったという実例だと思っていただきたい。ここで、レッテルという表現を使ったのには、ちゃんとした理由がある。レッテルを貼られるという表現が示すように、『レッテル』は、誰かに貼られるものなのである。あるいは、自分が誰かに貼り付けるものである。つまるところ、そこには自身の意思が介在していないということである。自分の意思が介在していないのだから、コントロールできないのではないか、と悩んだ時期もあったが、最近になってそうではないかもしれないと考えることが出来るようになった。その解こそが『看板』である。
レッテルが貼られるものであるのに対し、看板は『自ら』掲げるものである。レッテルと違って看板は自らの意思で掲げるものである。
最初レッテルだったものが、気付いたら看板になっていることも時にはあるだろう。

 ここまでレッテルと看板の違いについて述べてきたが、自分自身の日常を楽にするのに役立つのは看板だろう。自身でPRするのだから、それ相応の責任は生じるが、自分でコントロールできるのが強みだろう。以前よりも起業する人が多い。また、SNSでの影響力が大きかったりと、個人の力というのが以前よりも影響する範囲が広くなっている昨今、自分を適切にPR出来るというのは、ある意味で最大の武器なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?