書きたいことを書き忘れる
昨日、俳句に対する感慨を書いているうちに本当に書きたかったことを書き忘れてしまった。かように自分の話は脱線する。まあいいや、別記事に書けばいいと思う。そしてそのまま書かないでいるうちに、忘れてしまう。アホである。
うまく俳句が作れない(いつものことだけれど)とネットをうろうろしていると、とあるホームページにたどり着いた。どこかの俳句の青年部の方が書いた俳句が自由詩の如く並んでいた。
文学青年らしい言葉のチョイスは、きっと俳句の御大から言わせれば奇を衒っただの仰々しいだの言われそうだけれども、自分はああ、こういうのもいいなと思った。
俳諧のワビサビとかはわからない。枯れてから作っても十分だと思ってる。それが爺さん婆さんになった時の実感であり感性だから。最終的には皆そこに行き着くとしても。
若さゆえの独自の感性というのはある。若いうちのそれを活かした句というのは自分には新鮮で好ましく思える。その時々でなければ出てこない句というのはあるような気がする。
で、ここからが書きたかったことなのだけれども、わたなべじゅんこさんという俳人の方が作った「鳥になる」という句集がある。もう20年も前の句集らしい。たまたまネットにそのうちの数句が載っていたのだけれど、ああ、この方の句集を読んでみたいなぁと思った。
文学的才能がゼロなので、偉い人の句集を読むとあくびが出て止まらない😅ちゃんと読めばその凄さに少しでも近づけるのかもしれないけれども、眠くなるかパラパラとめくるだけだ。何という凡人。
話がそれた。
この方の句集は今や手に入らないらしい。なんとも惜しい機会を逃してしまった。
その時々の感慨はその人の人生の中でその時にしか訪れない。その瞬間の何とも言えない気持ちを切り取ったものは巧拙を超えてこちらに訴えかけてくる。
具体的に句を掲載しなさいよ、わからないでしょ、と言われそうだけれども著作権に引っかかりそうで割愛😅
ルールを守る小市民ではあるけれども、俳句は掟破りの方が好き。
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