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書評:有機合成のための遷移金属触媒反応


読んだ本

辻二郎 著、有機合成のための遷移金属触媒反応、第1版第3刷、東京化学同人、2012年、154頁.

分野

有機金属化学、遷移金属錯体化学

対象

有機金属化学を初めて学ぶ学生 (B3~M1)

評価

難易度:易 ★★★☆☆ 難
文体:易 ★★★☆☆ 難
内容:悪 ★★★★☆ 良
総合評価:★★★★☆

有機金属初学者向けといえばこれ

内容紹介

 本書は有機合成化学協会の出版委員会の一企画として,とくに合成を専門とする有機化学者のために,錯体触媒を用いる有機合成反応をその有用性の見地から解説したものである.講義用の教科書に,また研究者の参考書として活用されることを期待している.それぞれの反応を理解しやすいように適切な最小限の代表例を選び,簡明な反応機構で説明した.(引用:有機合成のための遷移金属触媒反応 - 株式会社東京化学同人 (tkd-pbl.com)

感想

 有機金属化学を学部の授業でまじめにやっている大学はどれほど存在しているのだろうか。少なくとも、私が学部生の頃は、きちんとした有機金属化学の授業はなかった。まわりからも聞いたことがないので、基本的に有機金属化学は応用分野という立ち位置なのだろう。にもかかわらず、有機化学を研究していくうえで避けて通れないのが有機金属化学という学問である。鈴木-宮浦カップリングやメタセシス反応が文句なしに市民権を得た現在、有機化学者にとって有機金属化学が必修科目であるのは間違いない。今では光触媒や電解、マイクロウェーブ、フローケミストリー、ボールミルあたりも、まったく知りませんでは通用しなくなってきている。
 ただ、有機金属化学という学問は、有機化学を勉強してきた学生たちにとっては大変理解しずらい学問である。まず有機化学は有機電子論(巻き矢印をつかって電子の動きを説明する学術体系)を基本武装として、様々な強敵と戦う必要があった。にもかかわらず、いざ有機金属化学に飛び込んでみると、有機電子論では全く歯が立たなくなる。形式酸化数やらd電子数やら酸化的付加やら、とにかくはじめのハードルがかなり高い分野である。
 新たな学問を学ぶにあたって最も重要なのは学術書である。しかし、冒頭で述べたように、有機金属化学は学部教育で習わないので、学術書の数が少ない。特に、学部生向けのような、初学者向けの本があまりない。有機金属化学の有名な書籍として、小宮三四郎 ・穐田宗隆 ・岩澤伸治 監訳『ハートウィグ有機遷移金属化学 (上・下)』(amazon)  などがあるが、重厚な作り故、これを初学者が解読するのはかなりハードルが高い。また、お値段も相応に重厚なものとなっている。
 そんなお悩みの初学者のために作られたといってもいいのが当書であろう。まず、154頁と学術書の中ではかなり薄い。お値段も3000円程度とリーズナブルである。最も重要な中身だが、初学者の目線で書かれており大変わかりやすい。前述したとおり、有機金属化学では有機電子論が扱えない。そうなると、酸化的付加や還元的脱離というのが、一体何が起こっているのかさっぱりわからなくなる。しかし当書では、読者の理解を促進させるために、あえて巻き矢印を使った説明を行っている。以下に前書きの一部をのせる。

有機化学者は有機反応の機構の説明と理解のために、反応に際し結合に関与する電子対の動きとその方向を示すのに巻矢印を常用している。一方、有機化合物を基質とする遷移金属錯体の触媒反応は機構が明らかでないものが多く、また通常の有機反応とは機構が異なるので、同様に矢印を用いて説明することは必ずしも適切ではない。そのために有機金属化学の成書では矢印はあまり用いられていない。しかし、巻矢印の使用に慣れた有機化学者が、有機反応とはタイプの異なる触媒反応の進行経路や反応機構を容易に理解できる手助けとして、本書ではあえて巻矢印を使用した。

当書前書きより

 まさに有機化学を学んだものが求めていた説明はコレなのである。そも、有機電子論自体、理論からは離れたものであり、誤解を招く覚悟でいえば、”空想”の学術体系である。これは有機電子論の化学史を読み解けば自ずと理解できるはずである。物理学者が原子の世界に頭を悩ませていた時代から、有機化学者は”直観”でものごとを理解してきた。従って、私個人の意見としては、有機電子論に理論的正当性を求めるほうがお門違いであり、反応の理解に使えるのであればそれで十分なのである (注1)。
 その面で考えれば、当書は有機化学を学んできた学生にとってこれ以上にない良著である。もちろん、後々考え方を修正していく必要はあるが、何かしらの取っ掛かりは必要だろう。有機化学を学んできた学生の最初の有機金属化学の参考書なら、私は当書を必ずおすすめする。


(注1) あくまで個人の意見である。確かに現在では、英国学派によって生み出された古典的有機電子論に対して、Paulingの共鳴理論や、ベイカー–ネイサン効果を発祥とした超共役など、量子化学の概念が取り込まれてはいる。しかし、共鳴も空想の産物であるし、とても”理論的”とは言えない。だが、それがいいのだ。最近ではこちらの論文(野村 聡 著『科学的理解の観点から見た有機電子論』)が話題になった。

いくつかの化学理論は、特徴として事実を正確に表すことよりもツールと しての実用性を重視しているように見え、事実的かつより根本的な物理理論に還元される運命にあるかのように思われてきた。しかし、科学の目的の一つである理解のためには、必ずしもその必要があるとは限らない。De Regt (2017) も、理解を提供する理論が実在的もしくは還元的であることは必要条件ではないと述べている。むしろ厳密な計算による定量的な説明が理解を損なう恐れすらあるのである。

野村 聡, 科学基礎論研究, Vol.50, No.1 (2022) 33~45.

M. J. S. Dewar 著『有機化學の電子説』や井上稔 著『有機電子論解説』、米沢貞次郎 他著『改訂量子化学入門』あたりは参考になるだろう。全て有機軌道論で説明可能とする過激派書籍、稲垣都士 他著『フロンティア軌道論で理解する有機化学』などもある。

購入

比較的最近の書籍なので大幅な値崩れや、プレミア価格になるような気配はない。

参考サイト

  1. 有機合成のための遷移金属触媒反応 - 株式会社東京化学同人 (tkd-pbl.com)

  2. 有機合成のための遷移金属触媒反応 | 公益社団法人 有機合成化学協会 | SSOCJ – The Society of Synthetic Organic Chemistry, Japan

  3. 有機合成のための遷移金属触媒反応 | Chem-Station (ケムステ)


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