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二元化した世界と、再顕現する原子論【2020年3月22日】

世界が二分されたのはいつであっただろうか。

私の記憶では2017年がその境だったと思う。その頃と言えば、そんな分断の仕方をするやつはネットのスラリングを使っちまう「イタい」やつだった。

けれども、今では、世界が当たり前に、なんの躊躇も色眼鏡もなくその二陣に分けられている。

あの日、人々は「陰陽キャ二元論」に染められたのだ。

見どころ:目次から飛べる「【ありがたいお話】個性とは」です。これは昔ラジオで聞いたお話で納得のいい話です。

【はじめに】陰陽2極主義

要約:世界はより簡単に、単純に、全てが混ざり合って夢となる。

その概要をここでは綴る。私から世界への反逆である。

まず、それ以前の「世界」を復習・確認しておく。
世界が二元化する以前、すなわち陰キャ陽キャ主義者の台頭前、
人々は「リア充・キョロ充・オタ・ボッチ・DQN」
と少なくとも5種の人間たちがいた。(注1)
非常に(非情に)段階的で、階段の様でなだらかだ。

多様性がそこにはあったのだ。


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しかし今はどうだ。上の図に示した通り、世界は単純化してしまい、個人のアイデンティティを確かに担っていた属性が5から2へと分類されてしまうようになった。
これでは段階的な構造から、2陣による対立構造のようになってしまう。戦いはきらい。
またこれでは、単純に考えて、人類の50%の人間が自分と同じアイデンティティを持つことになり、没個性化してしまうではないか。

没個性はさみしい。自分が自分であり続けるのが難しいからだ。

自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。

悲しいではないか。

【本文】世界の2元化、その原因と弊害

なぜ世界がこんなにさみしい分け方をされてしまったのか。
私はその原因を、「わかりやすさ」に求めたい。以下説明。

例えば、Twitterに代表される大規模SNSでは誰でも情報や思想の発信者になれる。そしてそれと並行して注目すべきは誰でも「読み手になれる」ことである。このため書き手はあらゆる読み手を想定しなければならない。
(書籍や雑誌であれば、ある程度読み手を絞ることができるがSNSではそうはいかない。また、書き手がSNSを利用するのも、できるだけ多数に発信したいからという動機があってのものだ。)
この条件下において、理解し難い文章は制限される。140文字ならなおさら簡潔な文章を要求される。

この「わかりやすい世界」こそ二元化の原因であると私は考えた。理解しやすいものに囲まれていれば、感性はそこにチューンされるというものだ。

つまり読み手の慣れ親しんだ表現が、その動き・慣性をもってしてそのまま世界をわかりやすく、曖昧にしてしまったのだ。


次にこの二元化の弊害を以下述べていきたい。

その弊害とはすなわち①キョロ充の上位存在変換と②他者、人間の単純化である。

①について。【はじめに】で用いた図を見てほしい。「リア」と「キョロ」がそのまま「陽」へとシフトしてしまっている。確かに、リア充と言うのは輝かしい人生を歩んでいるであろうし、私としても羨ましい。まったくの「陽」であると認めざるを得ない。

しかし、だ。キョロについては「陽」であると私は認めない。彼らはリア充≒太陽の最も近くを公転し続ける惑星の一種だ。それは分かる。けれどもそれは太陽ではないだろう。太陽の近くをいくらグルグル回ったとて水星は輝き始めるわけではない。
なんだったら「陰」の下にもうひとつ「泥」とかつくってそこにぶち込みたいくらいである。私はキョロが嫌いなのだ。

②について。他者を観るときひとは評価を与えずにはいられない。「彼女は美しい」だの「彼は神経質そうだ」など良くも悪くもそうしてしまう。
その評価タグ項目に、「陰」と「陽」だなんて簡単で使い勝手が(一見)よさそうなタグを加えてしまうと他者の評価が単純で複雑味のないものになってしまう。つまらないではないか。

このままでは乾いた砂漠のように虚ろではないか。それはやはり寂しい。

【終点】顕現する原子論

原子論とは、古代ギリシアの哲学者デモクリトス先生に代表される自然哲学である。どういうものかと言えば、「世界は、水でも火でも空でもなく、それ以上分割できない、最小単位のatomosから成る」という思想だ。
これは、すべてをatomosに帰すという完全な一元論ととらえられる。

今の時代、必要なのは人間属性一元論志向型の哲学なのではないか。

社会=人々の集まりの最小構成単位を、陰陽の2種とする主義を捨て、社会の最小構成単位をatomosとなる1種のみに規定するのだ。
すなわち、完全すぎる没個性を目指すという過激な極論である。まず以下のありがたい話を読んでほしい。

【ありがたいお話】個性とは

ある書道家が話していた話がある。
真の個性というのは出そうとして出るものではない。確かに、墨汁の代わりにピンクのインクを用いたり、目をつむって書いて見たりするのも個性化もしれない。
けれども、私が考える個性とは「どうしても埋められない差」である。
例えば、私が藤原俊成のような見事な書を書きたいと考える。だけど、どれだけ努力しようにも100%彼と一致する作品はできない。彼と同じ筆や同じ墨、和紙を用いようにも必ず彼とは違う作品になってしまう。それは指の長さや体の筋肉の付き方、書いてきた文字、己の文化、思想、それこそ歩んだ人生が違うからこそ絶対的「差」が生じるのだ。そしてこの「差」こそが真の個性であり、個性の正体である。

以上ありがたいお話です。良い話ですね。

まとめると、とにかく同じようにやってみろ。おのずと個性を出すから。という話である。

ここに私の愚案愚考を加えさせていただきたいのだ。

完全なる没個性、これは全員に同じラベルやタグを付けるという事だ。それは付けていないのと同義である。(注2)

同じタグしかないと人はどうなるのか。答えはおのずと他者に個性を見出そうとする動きが働く、である。すなわち自分の言葉で、他者をカテゴライズする。陰陽オタリアなんて既存のラベルを張るのではなく、自分のもつラベルを張りだす。ある人が俺を見れば、「アニメすきそう」、またある穂と蛾見れば「長期休暇でもずっと暇そう」などとなる。他者から見られる私は色々な側面を与えられ、より立体的な存在として世界に生存できるのだ。
うれしい!

単一化。個は個であり、それ以上言い表せない。俺は俺であって、陰キャの一言で片づけられない。オタでもボッチでも片づけられない。俺は俺だ。

俺を表す最小単位で最大単位なのは俺以外ないのだ。

【余文および注釈、および物置】

(注1)私としては、オタやボッチに「充」の字が付かないのなら、キョロにもつけるべきでないと思う。というか、オタやボッチが充実していないという思い込みがそもそもの間違えである。

(注2)例えば写真なんかにタグを付けるのは、見つけやすくするためである。しかし、全部の写真が1種の同じタグしかつけてないなら見つけやすくもならない。検索しても、検索前の写真一覧と同じ画面のままだ。やはり同じタグしかつけないことは付てないことと同じである。

正直②に関しては割と力技のでっち上げなので無視していただきたい。
ただ①に関しては強く主張したい。キョロどもが「俺は陽キャじゃん」と頭に乗るのは腹が立つからだ。

(メモ:新聞や新書、雑誌といったしか”マス”・メディアが確かにこの世には存在する。しかし大衆への情報発信を謳っているものの、実際には少々高等な知識を必要としている。日本人の何割がメディアに掲載された経済や政治、社会問題を「読む」ことができるであろうか。特に若者の紙離れなどとよく言われるように、10代20代は)

試しに押しても罰は当たらないはずです。知りませんけど。