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半生を振り返る【フリーランスコーダーまでの道のり】

生まれてからこれまでの自分をおさらいします。

誕生~幼少期

私はド田舎で生まれました。
田舎コンプのかたまりです。
3きょうだいの真ん中として生まれました。
ザ・真ん中な性格をしています。

小さい頃から背が小さくて、あまり自分に自信が無い性格でした。
小学校の頃はだいたい100点とるくらい勉強はできたけど、授業参観でハイハイ!って手を上げて自信満々で答えたらそれが間違ってて、むちゃくちゃ恥ずかしくて、それから手を上げることもできなくなって自信を失いました。
運動はまったくできなくて今でも大の苦手です。

10代

絵を描くのは好きで運動が嫌いだったので、中学に入ると美術部に入りました。美術部と言ってもたいして絵は描かずにダラダラしてました。
中学では、私の席の前にいたちょいヤンキーの男の子がMR.BIGのアルバムを貸してくれて、初めてMR.BIGを知りました。

高校に入って、美術部と軽音部に入りました。
軽音部は先輩が文化祭で教室ライブやってたのがカッコいい!と思って(ブルーハーツ歌ってた)入部したものの、結局恥ずかしくて足を運べず。
美術部に入りながら、進学を芸術系に絞ったためデッサンの勉強をしつつ、の部活動を始めます。

同じ美術部に仲の良い男子がいて、絵を描いてない時はだいたいその子とグダグダおしゃべりしていました。
その子が「これ良いから絶対に読め!」と貸してきたのが、村上春樹の1973年のピンボールです。

制服はブレザーだったのですが、ブレザーは着ずに古着のアディダスジャージ羽織って、学校指定のスリッパと違う色のスリッパ買ってきて修正液で落書きしたのを履いて、自分で作ったコートを着る、みたいなことをしていました。

短大時代

京都にある芸術系の短大に進学しました。
ここで田舎コンプが発動します。
まず喋ると方言でザワつかれるので、どう話していいかわからなくなる。
ユニクロを知らなかったので、「ユニクロって何?」って聞いてザワつかれる。真っ赤っかですね。

授業で糸を煮て染色している間とか待ち時間があって、その待ち時間の暇つぶしで煙草を覚えました。

友達の家で使ってない家があって、そこで音楽かけながら朝まで飲むとかしょっちゅうしていました。
そのころはゆらゆら帝国とかよく聴いていました。
芸大っぽいですよね、ゆらゆら帝国。

学校に入ったものの、自分のできなさに自信がなくなってしまって、がっつり芸術方面での就職に尻込みしてしまい、就職活動ではアパレル関係を受けました。
ですが、アパレル系は私の思っているものと全然違う世界で、面接に来る人たちも面接の内容も何もかもしっくりこず、就職できずに地元に一旦帰ることになりました。


初めての就職

近県に引っ越しして一般事務として就職しました。
その時に付き合っていた人は「お前みたいなものは(俺がいないと)何もできない」って抑えつけるタイプで、私も元々自己肯定感が低かったこともあり、彼の言う通りそうなんだろうと思い込んでいました。

一般事務として働き始めて何年かすると、仕事の効率化・改善を考えられるようになり、「あれ?私って何もできないことないんじゃない?」と思うようになってから、彼の発言がおかしいものであることに気づき、お別れを切り出しました。

その後、医療事務資格を取って薄給の中お金を貯めて京都に移住することになります。

京都に移住

京都に移住して医療事務として働き始めます。
大きい病院で派遣で働いていましたが、業務時間中休憩することなくずっと仕事でランチも業務をしながら机で食べる、みたいな仕事なくせに時給は超特価860円で、辞めたいなあと思っているころに手術をすることになったので、そのタイミングで仕事を辞めました。

ちなみに、何故このような超特価で働いていたかというと、医療事務の資格は取っただけではあまり意味は成さない、就職できないということ。
医療事務資格を取得しているうえで、実務経験もある程度ないと該当する求人が無い。
そこで、実務経験を積むために派遣に登録したのです。

次に調剤薬局で働くのですが、ここでも色々働いているうちに、こんな仕事をただこなすみたいな生活を死ぬまで続けていたいのかという問いが思い浮かび、そして色々あって辞めることにしました。

特に計画なく辞めて、また医療事務を探すかといくつか面接を受けに行ったけどなかなか受からない。
そんな時に友達に職業訓練というものがあることを聞き(この時まで職業訓練という存在を知らなかった)、ハロワに行きました。

最短で受けられる職業訓練講座のうち、自分ができそうな講座を絞り込んでいった結果「WEBクリエイター講座」に応募することになりました。


京都に移住して、全然友達がいなくてひとりぼっちの生活を送っていたのが寂しくて、当時全盛期だったmixiコミュニティで、オフ会にたくさん参加しました。お酒飲み会好きが集まるコミュニティは一番良いところで、ここでたくさんの人と出会うことができました。

当時はすぐにお酒を飲みに行けるように、繁華街まで歩いて5分のところに引っ越しをして暮らしていました。
好きなお酒はストーンズバック、シャンディガフ、辛口純米酒。

壁に落書きしていい居酒屋とか、

不定期で始まるアイルランド音楽の生演奏とか、

キンキンに冷えてるビールと丸ごと野菜を出してくれるとか、

ストップかけるまでひとくち串揚げが出続けるとか、

職業訓練校に行ってる時期では、何回か音楽スタジオでヴォーカルをさせてもらいました。
でも、私が致命的なのは、歌詞を覚えられないことです。
歌詞を覚えられる力を持っていたなら、ステージとかで歌ってみたかったな。

ウェブ業界に就職

WEBデザイナーになるつもりで就職しましたが、採用された会社ではデザイナーが既におり、コーダーのポジションが必要とされていたので、必然的にコーディングを主として働くことになりました。

業界未経験での就職だったので、何もできないところから試行錯誤して毎日業務をしていたのですが、働いていくごとに、あれ?コーディング自分に合ってるんじゃない?と実感していくことになりました。
結果的にデザイナーではなくコーダーとして働けて良かったなと思います。

ここまで何回か転職して引っ越しして、としているうちに、
「私けっこう何とかできる」「人生けっこう何とかなる」
のような自分を信じる気持ちが湧いてきて、自分の芯に持つことができるようになってきました。

色々やってきて、「大事なのは、最悪パターンの想定をしながらポジティブな想定と選択ができること」だと悟りました。
考えなしのポジティブは、ただの無謀です。


このへんの時期にデジタル一眼レフカメラが当選しました。
私は懸賞運がだいぶ良くて、子どもの頃から色々なものが当たっています。

カメラが当たったことでカメラが趣味になりました。
後には写真教室に通うことになって、そうするともっと良いカメラが欲しくなって…。結局当選したことで高くついたかもしれないね。

出産~フリーランス

お酒飲みコミュニティで知り合った人と結婚して妊娠・出産しました。
ほぼ子どもは無理だろうと思っていたので、子どもができたことは思ってもみない僥倖でした。
育休期間が終わる頃に、復帰の相談を会社にしたところ、会社の形態を色々と変えていて私にやってもらう仕事を探すからしばらく待ってと言われました。簡単に言うと、ポジションはないよって言われたことになります。

ああ、戻ってきてほしくないんだろうなぁと思ったのと、これまでにリモートでの副業経験があって、問題なくこなせていたことから、会社を辞めてフリーランスになるという選択肢が生まれました。
会社に、「申し訳ないけど復帰せずに辞めます」と伝えると、引き留められることはまったくなく辞めることができました。


フリーランスになろうと思ってから、ネットで業務委託の求人に応募したら、すぐ数社と業務委託契約を結ぶことができて、意外とできるもんやなあと思いつつ働きながら今に至るかんじです。

フリーランスのお仕事

コーダーでのフリーランスの場合、制作会社勤務経験5年以上、Wordpressオリジナルテーマ構築可能、があるとポジティブに面接していただけます。

フリーランスになってからの仕事はネットで探すのを基本としていて、周囲に自分の仕事について発信するということはほぼありませんでした。
知人に売り込みするというのがあまり気が進まなかったためです。

ですが、昨年から自分の名刺を作成して周囲に自分の仕事をお知らせしたり、InstagramやTwitterを使うようになりました。
名刺を配っておくことで、身内や知り合いから仕事をもらうことがあって、そこから別の制作会社とつながって仕事をもらうようになる、といったつながりも生まれ、発信することも大事だなと実感しました。
Twitterからも新たな人間関係が生まれて仕事にもつながるので、有り難いことだなと思っています。

大事なのはメンタル

仕事をしてきて思うのが、自分が意外とメンタルが強いということ。
人前が苦手でものすごく緊張しいな性格で、子どもの頃はネガティブでメンタルが弱かったはずですが、いつの頃からなのか気づいたらメンタルが鍛えられていたみたいです。
相変わらず人前は苦手だけど、人と話すことは好きになりました。

そんな私の好きな画家。

石田徹也。鬱ですね。


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