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旅のはじまりは…

2022の終わりは本当に訳もなくつらかった。
別に余命宣告されたわけでもないし、家族が亡くなったわけでもない、
会社が倒産したわけでもないのに・・・。
それなのに、毎日が理由もなく重苦しく、こころは小さくなって、
いつもなにかに怯えていたような。
濡れた革の袋に、押し込められたような息苦しさは、
どうも自分の内側から感じているみたいだった。
何が起こっているんだろう・・・
自分でも自分の状態がよく理解できないし、ぴたりとくる言葉も見つからない。
仮に医者にかかったとしても、
「なんでもありません...」といってしまうような、そんな感覚だった。
(たまに本当にやっちゃいます。)
「言ってもわかんないだろうな...」とあきらめた気持ちと
「本当に説明がつかない」という、お手上げな感じなのだ。
ただただ、誰かに監視されているような、突然理由もなく、暗闇から、
敵に襲われるような、そんな体感だけは常にあった。
暗闇を這うように隠れながら暮らし、誰にも見つからないように息を
殺して暮らすような日々...(のような気がしてる・・・)

家族や周囲にはあまりさとられないように、元気にふるまってはいたけれど
内側でそんな戦いを繰り広げているのだから、それは余計なアラートが鳴り響く毎日で、疲労が尋常じゃないのだ。
(へんなアプリ入れちゃったかしら・・・。)
夕方になればどっと疲れが押し寄せてくる。
元気ふるまっていた分のつけもあり、より、
濡れた革で全身をきつく覆われる感覚が増した。
そんな状態でも、師走は私を追い越さんばかりに追ってくる。
(実際に師走に追い越されて、スケジュールがハチャメチャ。)
しかたない、年末の掃除をして、正月の準備にとりかかると、
少しは安定してきたけれど。

毎年大晦日は実家で過ごしている。
母が高齢になり、泊まることはないが、家族で食事をし、紅白を見て、
ごくあたりまえの年越しをする。
私もごくあたりまえの娘として、そこにいる。
たまに「なんで私がここに?」とさえ思うほどに実家に寄り付かない
娘だったから。
かつてのことは水に流して、何事もなかったように。
実際は流せないものもあり、毎回「カチン」ときても
感じないふりだけは得意。
昔、両親に感じていた緊張感や、恐さは今更ないが、
「くつろぎ」とはいいがたい。
いい娘として旅立つ父を看取れたし、言いたいことは山ほどあったが、
忘れてやるのが大人ではないかと、飲み込んだ言葉は数知れず。
「いい人でいたい」が建前で、本音はもっと「文句の一つでも言えたなら」
と思っている。
食事がすむと、母とリビングでお茶を飲んだ。
夫はお酒が入って緩んだ様子で、11歳になる二男と和室で紅白を見ながら気ままに過ごしていた。
二人は私にとっての安住の地であり、平凡な幸せを与えてくれる家族たち。

お茶の準備をしている母は腰は曲がっていないものの、白髪で、
しわも年相応にあり、
しっかりおばあちゃんになった。
昔、厳しかった母はもうどこにもいない。今ここにいるのは穏やかな
縁側の似合う老婆だ。
こんな風にやさしいおばあちゃんにならなれたら、今更
戦いたい相手はもういないということになる。
せっかく埋めた地雷も用無しになるのは当然だ。
でも確実にかつて埋めた地雷があって、処理をしないと間違って自爆
しかねない。私は地雷のありかを知るためには「感情を揺さぶられる」
しかないと感じていた。

「ルカ、どうしてる?
今年は志望校、受かるといいね。
春にさ、あの子が浪人するって言ったとき、「浪人は一年だけだよ」
なんていったら、変な顔してた・・・。それ見たときね、あ、おばあちゃん
には関係ないよ。って顔だった。余計な事言っちゃったなって。
あの子って、言い返さないけど、ちゃんと意思表示するよね。」

母がお茶をすすりながら言った。

「あの子って、親の私に対してもしっかり境界線持っていて、入れないときは入れないって決めてるから。
ほら、ずっと在日なんとか大使館みたいに、治外法権できたでしょ・・・。
だからかな、しっかり自分で考えていて、誰にも何も言わせないの。」
そう、息子は「誰にも何も言わせない強さ」がある。
日本にいるけど、どこかの外国みたいに、あの子の周りだけ、
い国籍な風が吹いていた。
その風って、すごく痛快で心地の良いものだった。
私もその風の中にいれば、誰からも侵害されないような・・・、
守られていて、かつ、
新しい風をいつも巻き起こしてくれた革命のような風だ。
私のような、簡単に他人に自分を明け渡してしまうか、
無駄な反発心だけを繰り返し、無自覚と後悔を交互に生きてきたような
不器用な人間からも、息子のような子が生まれてくる。
革命の国の血がそうさせているのだろうか・・・。
(フランス革命か?)
実際彼は、フランスの血が半分入っている。

息子は小さい時から、わかりやすい言葉で、私に気持ちを伝えてくれた。
時にはグズグズして、自分の殻に閉じこもってしまったり、恐がったり
もしたが、時間がかかっても、押し入れに閉じこもっても、後にあると
「どうすればいいか、」
を私に伝えてくれた。
もちろん怒りで伝えてくれたこともあった。
私は母から理解された記憶が少なかったので、すぐにイライラした。
されたことがないことは、なかなかできないのだ。
まるで、食べたことがないものをどうにかして作るくらいの難しさだ。
正解の味がわからないのだから・・・おいしいかまずいかどうかもわからない。
それでもわたしは一生懸命彼を理解したかったし、間違いたくなかった。
そうはいっても間違いだらけだったのだけど・・・。
「こどもは親を許すために生まれてくる」と
どこかで読んだように、
私はただただ息子からいつも許され、受容してもらっている気さえした。
それほどに、「子の愛は親の愛に勝る」と感じている。
何の資格も訓練も受けていない、親の免許もないような自分のところに
来てくれたのだ。そして、この無茶苦茶な運転にもかかわらず、
命を預けてくれている。この命への責任感と、逃げ場のなさ・・・。
この免許は、どうも慣れと、体験から学ぶしかないらしい。
私は必死だった。とにかく、無我夢中だった。
自分だって自分の運転が信用ならん。でも信じるしかないのだ。
彼との二人三脚の生活の中で、
私は息子をよく観察し、「愛する」ことをは彼から学んだ。
脳みそのどこかの引き出しに、保管されている息子との記憶と、
身体に残る記憶を頼りに育児をし、生きてきた。
もし、両親との関係が、息苦しく、重く、私のすべてを縛っている
「濡れた革の袋」なのだとしたら、息子と過ごした時間は
つらかったけど、「あたたかいブランケット」みたいな安心感がある。
そして、一緒にこの旅を切り抜けてきた、「同士」でもある。

その日々のすべては私にとって、「巡礼の旅」のようなもので、
「まだ見ぬ自分に自分会う旅」なのだった。











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