雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【14】

僕にも人並みに性欲がある。
いや、人並み以上、獣欲かもしれない。

たとえ人の記憶から僕だけの記憶が日々失われたとしても、僕自身は何も変わらない。

思春期になり精通を経験した。

夢精をして下着を汚した。

自慰覚えて、時々自分で慰め欲望を抑えた。

恋人を作れない僕は、恋人たちを横目に、多くの時を自慰で済ませてきた。

虚しくなり、自慰もせずに、僧侶のように禁欲的に過ごしたこともあった。

リリー・マルレーンのユディトや子猫は稀なこと。僥倖だった。

だから、葉子の存在は、僕にとっては全く予期せぬこと、未だに信じて良いかどうか、受け入れて良いかどうか、そう思う時がある。

葉子との初めての時は、突然訪れた。

それは、一朶の雨が地面を叩きつける夜のことだった。

葉子と食事を済ませて店の外に出ると、土砂降りの雨が降っていた。

「こんなに降るとは」

「どうしましょう。傘を持って来ませんでしたわ」

「僕もです。お店に借りましょう」

僕は店に戻り、事情を話して傘を借りられないか相談した。

店長が応対して、済まなそうに、傘がないことを打ち明けられた。
僕は無理を言ったことを詫びて、詮ないことと伝えて店の外に出た。

「お店には傘はないとのことでした」

「まあ、そうですのね」

「申し訳ありません、葉子さん」

「謝ることではありませんわ。どうかお気になさらないで」

「タクシーを呼びましょう」

「そうですわね…」

僕はお店に戻って電話を借りようとした。
その時、葉子が僕の背広の袖を掴んだ。

「どうしました?」

「ごめんなさい、咄嗟に。タクシーは大丈夫ですわ」

「でも、濡れてしまいます」

「お家は近いと仰ってましたわね」

「ええ」

「走って行きませんこと?」

「近いとはいえ、この雨です。走っても」

「大丈夫ですわ。暖かいですし、気持ち良いかもしれませんわよ」

「葉子さん」

「おかしいかしら?」

「面白いな、と」

「ね、走りませんこと?」

「良いですね。そうしましょう」

「えいっ」

葉子が走り出した。

「葉子さん!」

「早くいらして。案内してくださらないと、わかりませんわ」

葉子は直ぐにびしょ濡れになりながら言った。

僕は駆け出して葉子の手を掴んだ。僕も直ぐに全身びしょ濡れになった。

地面を叩きつける雨の音が耳を劈く。

「葉子さん、こっちです」

僕らが歩道を走っていると、その横を一台の神風タクシーが猛スピードで走り抜けていった。
タイヤが水溜りを踏んで、背の丈程の大きや水飛沫を上げた。

「楽しい」

葉子は走りながら笑顔で言った。

僕も笑った。

「もうすぐかしら」

葉子が僕を見て尋ねた。

「もうすぐです、ほら、あのマンションです」

僕は目の前の煉瓦壁のマンションを指差した。

葉子と僕は、息急き切って、マンションのエントランスに駆け込んだ。

ふたりとも肩で息をしていた。

「こんなこと、初めてですわ」

「僕もですよ」

「でも、楽しかったわ」

「僕もです」

ふたりとも、泳いだ後のように全身ずぶ濡れだった。

立っているそばから水滴が滴り落ちて、床を濡らした。

葉子は満面の笑みを浮かべて言った。

「なんだか違う夜のようですわ」

「違う夜?」

「いつもとは違う夜。昨日の夜でも明日の夜でもない、いつもの夜ではないみたいな気持ちですの」

「いつもとは違う」

「はい。なんだか」

それは、こんなことをしたから、と思ったが、それだけでもないような気持ちが、僕にもして来た。

「なんだか、僕もそう思って来ました」

「ね、そんな気持ちですわ」

「服を乾かしましょう。いや、その前に、この濡れた全身をどうにかしなきゃ」

僕は髪から水滴が顔を掛かるのを払いながら言った。

「お部屋に参りませんこと?」

「おっと。そうですね。こんな所で話し込んでないで、部屋に行きましょう」

僕らが話していると、エレベーターが開いて、小太りの中年女性が中から出てきた。ポストに向かいながら、僕らをちらっと一瞥した。

葉子は僕を見て笑いを噛み殺していた。

僕も吹き出しそうになった。

小太りの中年女性女性は、新聞を手に、僕らの横を通りながら冷ややかな目で見て、エレベーターに乗り込んでいった。

葉子は笑い出した。

僕も笑った。

葉子は僕の傍に寄って、僕の肘に手をかけた。

「お部屋まで、連れて行ってくださいますか」

「もちろんです」

僕と葉子はエレベーターに乗り込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?