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掌編「カッシアリタ」 春の歌

 電線が幾本も走る窓から、春の日差しが差し込んできていた。やわらかい毛布みたいな光だ、とリタはずっと待ち望んでいた陽を、あぐらをかいた姿勢で全身に受けた。
 あったかい。
 ついつぶやいてからふと思い立ち、着ていたクリーム色のパーカーとTシャツ、膝が擦り切れはじめたジーンズを脱ぐ。下着も取ろうか、と思ったが、まださすがにそこまでやるには寒そうなのでやめた。
 半裸のまま、床の上に大の字になる。胸元やお腹に日差しが当たり、ほんのり熱を持つ。
 久しぶりだな、これやるの。
 リタは自分に苦笑する。電線に雀がとまっていて、こちらを見ている。いくら覗いてもいいけど色気なんてないでしょ。腕枕をし、自分のからだに目を落としながら笑ってやると、雀はぴっとひと鳴きしてから飛んでいった。
 脇にある室内用車いすになんとなく指を触れつつ、あたたかさにうとうとしはじめていたら部屋のドアが開いた。コンビニに出かけていた男が帰ってきたようだ。
 久しぶりだよ、それ見たの。
 ドアが閉められ、男の乗る車いすのブレーキをかけながら、男があきれたみたいに言い、リタもまた苦笑する。
 寒くねえのか。
 全然。あんたもやらない? 気持ちいいよ。
 この冬はことさらに長く、また寒かった。
 仕事に向かうときは何枚も服を重ね着し、もはや常識となったマスクでさえ、感染防止というよりは、防寒のためにつけているような感じだった。雪が道に積もると、車いすの身であるふたりはろくに外出もままならなくなる。実際、買い物にも行けず、買い置きのカップ麺やレトルト食品を日々の糧にする、まるで災害時のような日を丸三日ほど過ごしたときもあった。そういうこともあり、特に男は体調不良もあり、ふさぎこむばかりの冬だった。
 だからこそ。今、ほとんど裸で、相棒の車いすをかたわらに日差しを浴びている今が愛しい。
 やめとく。お前こそあんま調子に乗んなよ。
 男は車いすから降り、リタのそばに座って言った。
 つまんないねえ。久しぶりにやってもいいのに。
 リタは身を起こすと、男が持ってきたコンビニ袋を開き、中にあった缶ビールを出してプルタブを開け、ぐい、と飲んだ。
 まだ昼前。
 だからいいんじゃん。
 リタはもう一本缶ビールを出すと、男に放り投げた。男はあわてたように受けとる。
 仕事復帰の前祝い。
 体調不良で休職していた男は、来週から晴れて仕事に戻ることになっていた。緊張からか、昨日あたりから男がそわそわしている様子が伺え、リタはそれが気がかりだった。
 まあ、それは夜でいいよ。それよりさ。
 男は缶ビールは飲まず冷蔵庫にしまってから、リタに呼びかけた。
 ん。
 ちょっと、散歩にいかねえか。
 散歩?
 コンビニでめし買ってきたから、裏の公園で食おうよ。着く頃にはちょうど昼だろ。
 リタは目を丸くする。そして、やわらかい男の顔を見て、いいねえ、行こ、と、うなずき、そそくさと脱いでいた服を身につけた。これも久しぶりだ。男が自分からなにかをしよう、と言ってくるのも、ほんのり笑みを見せるのも。
 アパートの裏手は、喧騒に包まれた玄関側の駅前に比べると、別世界みたいに静かだ。ほとんどくずれかけた平屋もある古い住宅街が広がり、その間をぬうように細い道が伸びている。電柱にくくりつけられた看板には、すっかり錆びついた交通安全の標語が白地に緑で書かれている。
 スピードも 笑顔も優しい 安全運転
 作者は近くの小学校の六年生の女の子らしい。といっても、今は何歳になっているのやら。 
 アスファルトの欠けや穴が目立つ、車通りも人通りもほとんどない道をくねくねと車いすを並べて進んでいると、やがて小さな公園が見えてきた。
 固くひきしまった土の敷地に入る。ほぼ正方形の園内を取り囲むように植えられているのは桜だ。遊具は昔ながらの、ペンキのはげたブランコや鉄棒、滑り台といったものが点在しているだけ。今は誰も遊んでいない。
 リタたちは向こう側にある、小さなあずまやに向かった。これも古いが汚れはあまりない。車いすを並べてテーブルに着くと、さっそく男が買ってきた昼ご飯と、コーヒーを淹れてきたポットを置いた。
 ここならマスクもいらないね。
 リタがマスクをはずすと、男もそうだな、とマスクを取る。春のぬるい風が頬にあたり、心地いい。
 おいしそうじゃん。
 男の買ってきた昼はオムライスだった。リタの好物。
 コーヒーを紙コップに注ぎ、食べはじめる。
 うん、うめ。
 男が唇にケチャップをつけながら、オムライスをかみしめた。なんだかこんな子どもみたいな表情も本当に久しぶりだ。今日は久しぶりだらけだ。
 リタも負けじと、ではないが、オムライスのとろりとした卵焼きと共に、ケチャップライスを口いっぱいにほおばる。昔からオムライスはこうして食べるのが好きだ。
 ねえ、オムライスの卵、とろり派? それともしっかり焼いたやつ派?
 頬をふくらせながら、男に訊く。
 おれはしっかり派かな。昔、母親が作ってくれてたオムレツとか卵焼きとか、けっこうしっかり焼かれてたから。
 自分のした話に記憶を呼び起こされたのか、男は違う話をはじめた。
 脊髄損傷の手術をし、長い入院の日々を送っていた幼いある日、ずっと病院に寝泊まりして付き添っていた母親が家の用事で外出した。二時間ほどで病室に戻ってくると、母親は手にビニール袋を持っていた。四角いなにかが、白い包装紙に包まれている。なにやら香ばしい匂いもしてきた。
 ちょっとおやつ買ってきた。
 母親が包みをほどくと、なかにはこんがり焼かれたトーストが出てきた。子どもの目にもなかなかの厚切りパンで、少し焼きむらがあるのが、かえって手作り感を醸していた。
 なんでも病院の近くに昔からの喫茶店があるらしく、そこで出されていたトーストを持ち帰らせてもらった、とのこと。
 母親は、真ん中の一枚を抜き取り、男に手渡した。男はすでに唾のわいていた口を目一杯開き、トーストをはじからかじった。途端にたっぷり塗られたバターの香りが口や鼻に広がる。少しまぶされた砂糖が歯にしゃりしゃりとあたる。病院食ではなかなか味わえない甘さ。嫌いな苦い薬の味が、舌から消えていく気がした。
 男は夢中でトーストをほおばった。それを眺めつつ母親もトーストをかじり、笑っていた……。
 あんなにうまいトースト、後にも先にも食ったことないな。大人になってから場所聞いてその店探したんだけど、とっくに閉店してたよ。
 男はコーヒーを飲みながら、やや眠そうな表情で語った。細い糸をなぞるような昔語りだった。
 リタもコーヒーをすすりつつ、男の話を黙って聞いた。
 男はなぜか昔や両親の話をすることが滅多にない。両親に関する話を聞いたのは、これがはじめてかもしれない。時々電話やメールがくるから、別に疎遠なわけではないようだが。なるべくひとりで生きていくため、自分からはあえて遠ざかるようにしているのか、それとも別の理由があるのか。多分、たずねるべきことではないのだろう。
 あたしも、ひとのことなんて言えない、とリタは思う。
 親も、常に酒の臭いがただよう古びた借家も大嫌いだった。まだがきみたいな年で家を飛び出し、さんざん馬鹿なことをしてきた挙げ句、このからだになった。
 もう死んでもいいや。
 あの夜、ビールを飲んだくれながら、本気でそう思っていた。
 そのとき、男と出会い、拾われた。文字通り拾われた。このからだになったから出会え、そして生かされている。もう、昔のことなんていらないんだ。
 でも、とリタは空になったオムライスの器にふと目を落とす。細い糸が、なにかをリタにたぐり寄せる。
 はるか昔、やはりこんな春のあたたかい日。珍しく酒の臭いの消えた六畳間で、オムライスを食べた記憶が、うっすらとよみがえる。生まれてはじめて食べるオムライス。瞼型の卵の上には、くるくるとばねみたいな線を描いたケチャップ。くすんだスプーンにたっぷり中身のチキンライスと共にそれらをほおばると、向かいには笑みを浮かべた誰かが……。
 かたむいてきた日差しががあずまやに差し込んできた。リタははっとなり、あたりを見渡す。背中があたたかい。また雀の鳴き声が聞こえる。さっきリタを覗いた雀だろうか、と想像し、つい笑みが唇に浮かんだ。
 なんか、思いだし笑いか。思いだし笑いするやつはいやらしいらしいぞ。
 男がそれに気づき、ちゃかすように言う。その唇にも笑みがあった。
 そうなの。やだねえ、本性出たかな。ちょっとこころをきれいにしないとな。
 リタは車いすポケットからスマートフォンを取り出した。YouTubeのセットリストから曲を選び、ボリューム小さめに流す。
 スピッツの、春の歌。

  春の歌 愛も希望もつくりはじめる
  遮るな 何処までも続くこの道を

 のんびり聴いていると、いつの間にか男が車いすに頬杖をついて眠っていた。


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