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短編「ゆらぐ夜」

 テーブルにうずくまっていた私は、はっと目を覚ました。意識不明から回復したかのように。
 あわてて顔をこすった。手の平がかさついていて、頬がけずられた。時計をみた。午後十時。テーブルに並んだ夕食は、新聞紙の下でとっくに冷めていた。
 私は、共に暮らす彼の帰りを待っていた。
 小さなデザイン会社に勤める彼は、多忙な日々を送っていた。二月に入ったここ半月は十時に帰れれば早い方で、日付が変わる頃に帰宅した日もあった。新人が入って少し楽になったというが、とてもそうは思えない。
 眠気覚ましに濃いお茶をいれ一口飲んだとき、部屋の玄関ドアが開く音がした。
 私は居間のすみにある、室内用の車いすに這い寄った。
 両腕でフレームにしがみつき、下半身をひきずりあげるようにして車いすに乗った。よじ登るという表現がぴったりだ。
 私は、この車いすと共に生きてきた。
 五歳の春、原因不明の脊髄損傷にみまわれた。下半身がまひし、両脚を動かすことができなくなった。寒暖、痛み、排泄の感覚もなくなった。以来二十九年、残がいのような体半分を抱え、生きてきた。
 車いすで玄関に出て彼を迎えた。彼が「ただいま」という前に、深いため息が聞こえてきた。
 高校一年から付き合い始めた。身障者養護学校から普通高校に進学し、健常者の中で何もできなかった私を、彼は「席が隣だから」という理由だけでずっと支えてくれた。三年間、彼の支えを受け、彼と共に学校生活を過ごした。彼がいなかったら途中でやめていたと思う。卒業後も自然と付き合いを続けた。共に暮らし始めたのは四年前からだ。
 レンジで温めなおした夕食を一緒に食べた。彼は黙々と食べ続けた。味うんぬんより、疲労回復のため体に入れているという感じだ。最近、こんな彼をみることが増えた。
「千鶴、風呂、入るだろ」
 食事を終え、彼と流しに並んで洗い物をすませると、彼は言った。
「私はいいよ。シャワーですませるから」
 このアパートの湯舟に私は自力で入れない。だから私が湯船につかる時は、どうしても一緒に入るのを強いることになる。
「なんでだよ。今日冷えただろ。ちゃんとあったまらないと」
「いいよ、疲れてるでしょ。直幸だけ入って」
「大丈夫だって」
 彼は立ち上がると、私を抱えあげた。こうなるともう逆らえなかった。脱衣所におろされると、彼と共にだまって服を脱いだ。
 ジーンズをおろすとやせた両脚があらわれた。太ももにわずかに肉が残るだけで、膝より下の部分は骨と皮だけだ。冬の枯れ枝にも、鳥もも肉の骨のようにもみえる。身体障害を負う前の幼稚園の運動会では、この両脚で誰よりも速く走ることができた。
 彼も服を脱ぎ終えると、よいしょ、と裸の私を抱えて風呂場に入り、湯舟に入れた。
「ごめん」
 湯につかると彼に言った。彼は大丈夫、とだけ答え、体を洗いはじめた。私は湯に目をおとした。力ない脚がゆらめいていた。
 体を洗い終えた彼は私を湯から引き上げて洗い場におろし、入れかわりに湯舟に入った。また深いため息が聞こえた。私はだまったまま洗顔クリームを泡立てた。

 日曜、部屋がきしむような冷気で目覚めた。
 隣で彼はまだ眠っていた。首を少し右にかたむける姿は、昨夜寝ついた時と同じだった。
 カーディガンだけをはおって居間に向かい、トーストと紅茶だけの朝食をすませると、戸棚から買い物帰りのようにふくらんだビニール袋を取り出した。中身はすべて薬だ。朝食後に飲む錠剤を選び、銀色のシートから次々と手にこぼした。十個の錠剤は色も大きさもさまざま、まるで駄菓子だ。
 これだけの薬を飲むようになったのは、一年半前からだ。
 その年は春頃から体調の不良を感じていた。体がとにかくだるかった。時々めまいやふらつきも覚えた。疲れだろうかと首をかしげつつ過ごしていると同じ年の八月、勤務先だった食品会社の事務室で今までにない強いめまいにおそわれた。体がゆれ、床が波打った。自分だけ地震にあったような感覚だった。
 病院に行き、すぐ精密検査を受けた。結果、腎臓に異常がみつかった。右腎が萎縮し、ほとんど機能していない状態だった。残った左腎も血管に狭窄がおき、働きが弱くなっていた。めまいはその影響で急激に血圧があがったためだった。このままでは腎不全となる恐れがある。隣にいた彼は呪文をかけられたように固まっていた。
 翌日、すぐに検査を受けることになった。ステントと呼ばれるチューブ状の器具を腕から刺した針で血管に送りこみ、狭窄の起きた箇所を広げる処置だ。
 私は一般女性より血管が細いらしく、困難も予想されたが、幸い処置は成功した。腎臓はぎりぎりで息を吹き返した。検査後、彼はベッドのそばで私をみつめ続けた。あの時彼が何を考えていたのか、今もわからない。
 翌九月に退院した。しかし私の体力は入院前よりすっかり落ちて、体調そのものも悪くなることが多くなり、仕事どころではなくなった。ほどなく会社をやめた。
 私の体調の変化に伴い、彼の負担は増した。それまでも家事は分担していたが、今までしなかった料理もするようになった。元々重労働だった入浴介助などを含めると、家での仕事はむしろ彼の方が多くなった。迷惑ばかりかけている。そう考えるたび、私は身をよじりたくなる衝動にかられた……。
 薬を飲み終えた時、彼が起きてきた。はれぼったいまぶたをしていた。
「もっと寝てればいいのに」
「変に寝過ごすと、かえってくたびれるから」
 彼はトースターにパンをさしこんだ。彼にコーヒーをいれた。いつもより多めに砂糖とミルクを溶かした。
 彼はその日も家事にいそしんだ。風呂場とトイレを洗った。私は洗濯物を干し、掃除機をかけた。腰をさすりながら湯船を洗う彼を、何度も見に行ってしまった。
 昼はきつねうどんにした。十分もかからず食べると、彼はこたつで寝息をたてはじめた。
 左手で彼の腰をそっと押してみた。板のように固くなっていた。深夜までMACのディスプレイをにらむ彼の姿が浮かんだ。親指を腰に刺しこんだ。マッサージをしたが、疲れのかたまりに指ははじき返されるばかりだった。
 
 翌月曜日、軽い昼食を摂ると私は外に出た。日課にしているジョギングのためだ。回復には休養だけでなく体力づくりも必要と、三か月前から続けていた。ジョギングといっても、軽くアパートのまわりを走るだけだが。
 体をほぐした後、道路へ車いすをこぎだした。前輪が小石をはね、アスファルトのくぼみに車いすがゆれた。機関車の車輪をイメージして腕を大きくまわし、タイヤを回した。
 今日は思い切って遠出をしてみようか。白い息をはきながら少し走った後、思った。
 先日、病院で血液検査を受けた。クレアチニンの数値が前回より下がり、腎臓は順調に働いているといわれていた。血圧も安定し、めまいもない。どのくらい体が回復しているのか、ためしてみたくなった。
 いつも折り返し地点にしている駅西口の交差点についた。ひとつ息をして車いすを前進させた。昔の城跡に作られた公園の南口がみえてきた。復元工事が進む敷地を走り抜け、東口から外に出た。
 ここまで異常はなかった。体は適度に熱を持ち、両腕の筋肉が芯から動く感触があった。病気をしてからはじめて、体に活力を感じた。
 これならいける。私は背筋を伸ばした。
 交差点で信号が赤になった。道の向こう側にある小さな和菓子屋が目に入った。
 あそこでお土産を買って帰ろうか。そんなことを考えながら信号が変わるのを待っていると、異変は急激にやってきた。心臓が重い動悸を打ち始めたのだ。
 顔をゆがめて胸に手をやった。すぐめまいにおそわれた。体が冷えはじめ、ねばった汗がにじんだ。地面がシーソーのごとくゆれた。
 近くの自動販売機に車いすをにじり寄せた。なにか飲めばおちつくだろうか。しかしめまいで体がゆれ、財布を取り出すのもおぼつかなかった。ようやく小銭を入れボタンを押した。出てきたスポーツドリンクのペットボトルに眉をひそめた。目当てだった温かい緑茶のボタンは、スポーツドリンクの隣だった。
 冷たいスポーツドリンクを飲み、おちつくのを待った。車いすの肘掛をにぎりしめた。頭や視線を動かすとめまいがひどくなるので、地面の一点をずっとみつめた。周囲の視線を感じた。うなだれた車いすの女を、気にしつつも通り過ぎていく人々の姿が想像できた。
 やがて、誰かがそばに来た気配を感じた。
 目だけを向けると、女の子が立っていた。
 年は四、五歳だろうか。白いセーターとデニムのスカートを着ていた。手編みらしい手袋はかなり大きめだ。私をみつけ、つい立ちつくしてしまったのだろう。
 まためまいがした。体がゆらいだ拍子に、膝に乗せていたボトルが落ちてしまった。
 女の子がしゃがみこむ気配がした。ぶかぶかの手袋をめいっぱい広げ、ボトルを拾い上げた。女の子は膝にボトルをもどしてくれた。
「だいじょうぶ?」
 女の子の声が、耳元で聞こえた。
 大丈夫か。
 女の子の声に、彼の声が重なった。下半身まひと病気を負った私を、いつもそう言って気づかっていた。もはや彼の口ぐせだった。はじめて出会った高校時代から、その言葉を聞かない日はなかった。
「だいじょうぶ?」
 女の子が、再びたずねた。
 気がつくと右腕が伸び、女の子の腕にふれていた。彼女は少し固くなったが、はなれはしなかった。女の子を抱きよせた。
 私、なにをしているの。でも女の子をはなせなかった。
 腕に力がこもった。それでも女の子ははなれないでいてくれた。女の子のぬくもりに、目の奥が潤んだ。

 その夜、帰宅した彼はいつにもまして疲れた顔つきをしていた。
 スニーカーをむしり取るように脱ぎ、部屋にあがった。流しで顔に水をたたきつけた。乱暴に頭をかきまわしたのか、寝起きのように髪がみだれていた。その間、無言だった。
 夕食の席に彼はビールのロング缶を持ち込んだ。普段、食事をしながらアルコールは飲まない人だ。私は異質なものをみる思いで、ビールと彼に目をやった。
「なにか、あったの」
 おだやかな口調を意識してたずねた。
 彼はプルタブをこじあけた。逆さになるほど缶をかたむけ、喉に流し込んだ。
「ちょっと、いろいろ、あってな」
 ぶつ切りの言葉は答えになっていなかったが、ため息をつくとまた黙りこんだ。
 夕食は、ほとんどやけ気味の食べ方だった。ハンバーグもサラダも、すべて一緒くたに口にねじこんだ。私はそれ以上、問いを重ねることができなかった。
 食事がおわると、彼の携帯電話に着信があった。彼ははじかれたように電話を取った。職場の人からのようだ。
「どうも、お疲れさまでした。いろいろお世話になってしまって。……いや、そんなことないです、先輩は悪くないです。……いいたいことはありますよ。でも今回、仕事に支障が出たのは事実ですから。しかたないです」
 終始互いを気づかう会話が続いた末、電話は切れた。彼が台所にやってきた。私が洗っていた食器を水おけから取り、布巾でふき出した。
「なにか、あったの」
 もう一度たずねた。
「大丈夫。平気だよ」
 彼のたいらな声がした。私はすっかり泡の流れ落ちたスポンジで、皿をきつくこすった。
 その夜、彼は風呂からあがると焼酎を梅酢で割ったものを飲みはじめた。なにか作ろうかと申し出たが、飲めりゃいいからと、しけたせんべいをかじりながら飲んだ。こんなに飲むのをみるのはひさしぶりだ。もともとは明るくなる酒だが、この夜は押し黙ったままひたすらに飲み続けていた。
 さすがに飲み過ぎかと思った時、彼は急にコップを置き、「先に寝る」と床に入った。私は自然と息をついていた。
 ひとり部屋に残った私は、焼酎をうすく梅酢で割り飲んでみた。梅酢は去年はじめて作った。だがかなりすっぱくなってしまい、減らないまま残っていた。焼酎で割っても酸味ばかりが舌をついた。こんなとげとげしい酒を、彼は飲み続けていたのか。
 少しずつ梅割りをなめていると、今日のジョギング中の不調が思い起こされた。
 あの場で、私はどれくらい女の子にすがっていただろう。ようやくおちつくと、女の子から腕をはなした。「ごめんなさいね」謝ると、女の子は「だいじょうぶ?」と、なおたずねてくれた。私は「大丈夫、ありがとう」と、無理矢理笑みを作った。女の子は笑顔を返してくれた。なんて優しい子なんだろう。泣きそうになった。彼女はばいばい、と手を振ると、はねるように走り去っていった。
 その後、行きより倍の時間をかけて帰りついた。車いすが重く、冷たかった。帰ってすぐ体を休めた。二時間、身じろぎひとつせず眠った。起きた頃には暗くなっていた。なんとか体調は回復していたが疲労はひどく、夕食は冷凍食品のハンバーグになった。その理由を彼には言わなかった……。
 梅酒を飲み、私も床に入った。疲れていたが、頭の芯は覚めていた。
「今日は、大丈夫だったか」
 暗がりから声がした。
 唇をかんだ。こんな夜でも私は心配させてしまうのか。
「私は、大丈夫」
 ぎしぎしとした自分の声を聞いた。息が苦しかった。頬のうらをかみしめた。
「よかった。お前が大丈夫ならいいんだ」
 なにがいいの。
 言葉は出なかった。酒の酔いが今になって血をめぐった。両手で腹をわしづかみにした。この手の奥に腎臓があった。粘度を増した血液が、どろりと頭の中に流れ込んだ。
 私は、暗闇で身をおこした。
 彼の布団に自分の身をひきずり入れた。唇で彼のそれをふさいだ。彼が息を飲んだ。だがすぐ私は体を抱きすくめられた。パジャマも下着もまたたく間にはがされた。
 乳房にふれられた時、心臓が不規則な動悸を二度打った。血圧が急激にはねあがったのか。うめきを喉元で止めた。
 体をきつく抱きしめられた。骨がひび割れそうだった。すがりつかれたような感触だ。動悸とめまいで動けなくなり、女の子にしがみついた、今日の自分のように。
 私は、彼の体に両腕を伸ばした。
 彼が私の乳房に顔をうめた。胸の奥がどくりとなった。めまいも感じた。しかし彼を抱きしめる力はゆるめなかった。
 彼の体が覆いかぶさってきた。鶏の骨のような両脚の間に、彼が沈む気配がした。
 どうか、もちこたえてくれないか。
 私は、ゆらぐ自分の体に祈った。
 横たわっていた動かない右脚を、細いすねをつかんで持ち上げた。脚は彼の腰にまきつけ、落ちないよう右手で押さえつけた。左腕は彼の背中にまわした。こうして私は全身の力をこめて彼を抱きとめた。本当は左脚も腰にまきつけたかった。もう一本腕があれば、と思った。
 彼が動いた。私は体に残るすべての感覚を研ぎ澄ませた。体の奥底でなにかが、かすかに光と音を放ち、微弱な電流のように走り抜けた。それが性による快感なのか、今でもわからない。だが彼とともにおこした炎と信じ、身をゆだねた。泡のような吐息がもれた。
 その声にはじかれ、彼の動きが激しくなった。私も彼の背中にまわした腕と脚を押さえつける手に、さらに力をこめた。骨ばった足首が、ぐらぐらとゆれていた。
 動悸が激しくなった。天井がゆらいだ。すべて振り払った。彼はいつまでも私を抱き続け、私も彼を抱き続けた。長い夜だった。

 翌朝、目覚めてもすぐ身を起こせなかった。
 まぶたをあけると、ふらつきと動悸を覚えた。額に汗がにじんでいた。顔を手でおおい、波が引くのを待った。しばらくするとなんとかおさまってきたが、気持ちは重かった。彼と身を交わすことさえ、今の自分には負担なのか。
「どうした」
 起きた彼が、私に気づいた。
 指のすき間から青ざめた顔がみえた。
「大丈夫」
 顔をおおっていた手をほどいた。
「ちょっとめまいがしただけ。起きてすぐ頭動かしたから、血圧あがったのかも」
 軽い調子で言いながら体を起こした。彼がうなだれた。
「おれのせいだよな。ごめん。昨日無理にあんなこと……」
「いいよ」
「病院に、行こうか」
「大丈夫だってば」
 彼の息がつまった。私も思いがけない自分の声にうろたえた。
「ごめん。でも本当に平気だから」
 目を合わさずに言い、服を着た。握り過ぎた右のすねが赤くそまっていた。
 いつも通りの朝だった。朝食を食べた後、彼は顔を洗い、私は薬を飲んだ。その間、ふたりとも無言だった。
「ねえ」
 着替えをする彼にたずねた。
「ゆうべの電話の、仕事に支障って、なに」
 シャツのボタンをしめる手が一瞬とまった。
「話、聞かせてよ」
 彼は笑顔をこちらに向けた。
「大丈夫だよ。たいしたことじゃないから。心配いらない」
 小さくうなずき、それ以上たずねなかった。彼がそう答えるとどこかでわかっていた。
「じゃ、行ってくる。今日も遅くなるかもしれないけど、無理するなよ」
「直幸も、無理しないでね」
「おれは大丈夫だよ」
 ああ、また大丈夫。
 私たちはなんで、大丈夫ばかりを重ねあってしまうんだろう。
 今日は、一緒にいてくれないかな。ほんとは大丈夫なんかじゃない。あなたも辛いことがあるのなら、私に、話して……。
 彼はドアを開け、部屋を出て行った。朝日が急にさしこみ、視界をくらませた。目がなれた時には彼の姿はなく、車いすが玄関にたたずんでいるだけだった。
                              (了)





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