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掌編「カッシアリタ」 ルチア

※本記事は投げ銭制です。全文読めます。

前のお話しです。第4話掲載にあたり、タイトル含め多少改稿しました。一話完結ですのでそれぞれで読めます。よかったら合わせてどうぞ。

 あ、きた、きたよ。
 リタはそっと、おれの耳にささやいた。
 ぼろアパートの玄関先で、おれとリタは昼間から車いすを並べ、缶ビールをあおっていた。
 梅雨の最中。連日降っていた雨はあがっていたが、手でしぼったら水滴がしたたるような湿った空気がじっとりと肌にまとわりつく週末。いつまた降り出してもおかしくない雲がたちこめる空を切り刻む電線。遠くから響くビル改装工事の騒がしい音。ラーメン屋の油っこいにおい。どれもいつもと変わらない。
 リタはそんな部屋の空気に耐えかねたのか、外で飲もうよ、と言い出した。外飲みは今やばいだろ。玄関の前で飲むんだからいいでしょ。疫病もそこまでは入ってこないよ。疫病って、江戸時代かよ。いいから、行こうってば。リタは相変わらず朝から脱ぎ捨てていたTシャツとジーンズを身につけると、冷蔵庫から金麦缶を二本取り出した。ついでに、と開けた口をゴムでしばったポテトチップスの袋を手にして。
 そういうわけでリタ曰く疫病の入らない玄関先で飲んでいると、開け放したままの窓際に、一羽の雀が飛んできた。ちょっとあたりを見渡した後、空き容器のなかに入れられた米粒をくちばしでつついた。
 今日もきてくれたねえ、ルチア。
 リタは笑った。

 開けた窓際に一羽の雀がはじめて飛んできたのは、一週間前のことだった。
 夕方、おれたちが近所のスーパーで安売りしていたそうめんの夕めしを食っていたら、ふっと飛んできた。あ、すずめ。びっくりしたリタが声をあげても、すずめは逃げなかった。細い両脚で埃だらけのサッシをつかんで羽根を閉じた。おれたちが見ているのも気にせず、きょろきょろと首を動かし、羽根のなかにくちばしを突っ込んだりした。
 おまえ、はやく帰らねえと暗くなるぞ。
 おれがそうめんをすすりながら言うと、すずめは不意に顔をおれたちに向けた。すると思い出したかのようにくるりとまわり、飛び出っていった。
 あんたに叱られて、あわてて帰ったんじゃない。リタがからかった。その日はそれだけだった。
 ところがこのすずめは、次の日もやってきた。次の日もその次の日も。ねぐらに帰る前のひと休み場所にしたのかどうか。
 リタは四日後、コンビニサラダの空き容器に米粒をまいて窓際に置いた。食うのかよ、そんなの。まあ、ためしだよ。すると次の日、すずめは飛んでくるとなんの警戒もすることなく米粒をつつきはじめたのだ。
 うちのこと、完全に気に入ったみたいね。リタは笑った。そして、その名ですずめに呼びかけた。
 明日も来な、ルチア。

 いっしょに飲まない、ルチア。おいでよ。
 リタは飲みかけの缶をかかげた。ルチアはちょっとだけこちらに首を向けたが、興味なさげにまた米をつつきはじめる。
 さすがにアルコールはだめか。
 ほんとに飲んだら、どうなんだろうな。
 すずめが酔っぱらったとこ、見てみたいね。ふらふらしながら飛んでいくのかな。
 リタは笑うと、そういえば、と思い出したように話しはじめた。
 小さい頃、近所にインコ飼ってた友達がいたんだよね。真っ白くてくちばしが赤くて。すごくその子になれててね。かごから出てきて手とか肩に乗ったり、手からえさ食べたりしてたな。それがうらやましくてさ、あたしもおいでって、腕伸ばしてみたんだけど、ぜったい来ないの。わたしにしかなつかないのこの子って、友達に言われて。帰りあたし、ぐすぐす泣いたのよ。なんだか子ども心にくやしくてさびしくてね。
 リタの言葉は、途中からひとり言のようになっていた。視線はずっとルチアに注がれている。
 おれは、リタの横顔に顔をやった。それに気づいたリタが振り向く。
 なによ。
 いや。おまえが昔のこと話すの、はじめてだなって思って。
 リタの眉がちょっとだけ上に動いた。一瞬目を泳がせると金麦をぐっとあおった。いっぱい食べなね。車いすの肘掛けに頬杖を突き、またルチアを見つめる。
 この日ルチアは、リタがふっと浅い眠りにつくまで飛び立たなかった。

 米粒だけじゃルチアも飽きるよね。
 その日の朝、目覚めると同時にリタのやたらくっきりした声が、起き抜けのおれの耳に響いた。
 ルチアのご飯、買いに行こうよ。
 リタが一度言い出すと頭のなかがそれでいっぱいになるのはわかっていた。だからおれは観念してリタとともに、近所のドラッグストアへ開店と同時に入っていった。
 今まで目もくれなかったペットフードのコーナーに向かう。値段も種類も量も多彩だが、パッケージに描いてあるのはインコや文鳥やカナリアといった鳥ばかりですずめが描いてあるのはない。当たり前なのだが。
 こんなの食うのか。おれが腕を組むとリタもうーんと悩んでいたが、まあ自然に近そうなものなら大丈夫じゃない、と、なにかの種に似た餌を手に取った。五百円でお釣りがくる値段だった。
 帰るとすぐ、リタは窓際のルチアのご飯皿に残っていた古い米粒を捨て、餌と取りかえた。珈琲のような香ばしいにおいがふっとただよった。
 おいしそうじゃん。
 そうだな。ルチアも気にいるんじゃねえか。
 空から陽が差してきた。本日、梅雨明けしたとみられます。テレビからはそんなニュースが短く流れてきた。
 ルチアが飛んできたのはもうすぐ夕方という時間だった。いつものようにあたりをきょろきょろし、羽根の手入れをしてから、空き容器に顔を入れた。だがいつも入っているのと違うと気づいたようで、少し首をかしげるようなそぶりを見せる。リタは背筋を伸ばして座り、緊張したようにルチアを見つめている。
 食べな。おいしいよ。
 リタがそっとささやきかけた。
 するとルチアはそれに応えるように、餌をついばんだ。くい、くいと首をうごめかし、くっと飲み込んだ。
 食べた、食べたよ。
 食ったな。
 リタがおれの肩をつかんでゆすった。おれの首がかくかくと揺れた。ルチアはそんなこっけいなおれたちにかまわず、餌を食べ続けた。

 餌を与えはじめてから幾日か。おれが仕事から帰ってくると、リタが窓際でぼんやり膝を抱えていた。
 どうした。
 ルチア、やっぱり来ない。
 リタは振り返らず答えた。車いすからおりて這っていくと、ルチアのご飯皿には餌と米粒が食べられもせず、そのままに残っていた。
 最近ルチアが来ないのと、リタはずっと心配していた。餌があわなかったのかと米粒も戻してみていたが、やはりルチアは飛んでこなかった。
 それからもしばらく、おれとリタはルチアを待ち続けた。その間リタはどこかうわの空だった。時々すずめの鳴き声が聞こえたりするとすぐ振り返るがそれは別のすずめで、ただ声だけを残して飛び去っていくだけだった。
 ここから、巣立っていっちまったかな。いや、卒業か。
 リタがうつむいた。ため息をつき、そっとルチアのご飯皿に手を伸ばし、テーブルに置いた。ご飯皿がなくなると窓は急にひんやり冷たく感じられた。
 飲まねえか、リタ。
 おれは冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
 疫病の入らない玄関先に出て、車いすを並べて飲みはじめた。真夏の暑さをまもなくもたらす空は、電線の間から夕焼けを惜しみなく注いでいた。まだ終わらないビル改装工事の音。ラーメン屋のにおい。なにも変わらない風景。
 ねえ。
 しばらくふたり黙って飲んでいたが、やがてリタがささやいた。
 あたしね、子どもがいるの。
 すずめの声がかすかに聞こえたが、おれもリタも、もうルチアの影を探そうとはしなかった。
 まだ歩ける頃に産まれたんだ。会いたいけどもう絶対会えない。でも、どこかで生きてる。ルチアとおなじ。
 ふうん。
 それだけ?
 ううん。
 なんかないの。
 ああ。まあ、そうだなあ。
 おれは空を見上げ、ビールをひと口、喉に流した。
 おまえかおれが死ぬ時、くわしく教えてもらうよ。おまえのほんとの名前といっしょに。
 隣でリタがくっと息を飲んだ。うつむき、額の赤い痣にふれる気配がした。おれの指先を、缶に浮かんだ滴がひとつ流れていった。
 もうすぐ、夜がくる。




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