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掌編「カッシアリタ」 ーリター

 尿漏れシート、敷かないとなあ。
 汗ばんだTシャツを脱いでいると、リタがけだるい様子で押し入れを開けた。乱暴に包装を破いた八個セットのトイレットペーパー。ビニール紐で結んだ古雑誌。聴くこともなくなったCDを入れたボックス。冬に使うハロゲンヒーター。引き出しになにを入れたかさえ忘れたカラーボックス。必要なもの、半分ごみと化したものが、雑然と押し込まれている。
 そんななかに、寝たきりの年寄りが使うような、尿漏れシートのパックが紛れ込んでいた。紙おむつのパックも斜めになって突っ込まれている。
 リタは尿漏れシートを強引に四枚引き抜き、おれに放り投げた。薄みどり色のそれを広げ、部屋の隅に置かれた二台の車いすの前に、レジャーシートみたいに敷く。その後、また服を脱ぎ続ける。膝が擦り切れた古着のジーンズ。ゴムの緩んだボクサーパンツ。最後に紙おむつも、テープを剥がして取り去る。
 おれのそばでリタも脱いでいる。グレーのタンクトップ。肩紐がねじれたブラジャー。チノパン。糸のほつれたショーツ。おれとおなじ紙おむつも乱暴に引きちぎる。
 ああ、やっとすっきりした。
 リタが微笑む。放り投げられた彼女の紙おむつは、真ん中あたりが尿で少し濡れていた。
 おれは全裸になると、床に敷いた尿漏れシートの上に寝そべった。完全まひの身体障害を負い、感覚も動作も失われた下半身が投げ出された。筋肉がとうの昔にそげ落ち、骨と皮だけの両脚もだらりと広がる。
 あはは、ちんちんぷらぷら。
 リタはおれの左隣に横になると、指でおれをメトロノームみたいに二、三度揺らして笑った。視界に入るリタの下半身は、やはり完全まひの身体障害。両脚はおなじような鶏がらだ。
 おもちゃにしてんじゃねえよ、ばかたれ。
 リタの手を叩くと、あはは、とまた笑った。視線の先に、リタの薄い陰毛に覆われたあそこが見えていた。
 うだるような暑い日、おれたちはこんなふうに、部屋のなかで服もなにもかも脱ぎ捨て大の字になるのが、いつからか習慣になっていた。すっきりするからやろうよ、とはじめに言い出したのはリタの方だった。
 最初、おれはそんなばかみたいなことを、とためらった。だがリタは首を振るおれをほっといて、さっさと服を脱ぎ捨て、寝そべってしまった。
 はー、極楽。
 銭湯に入ったみたいに息をつくリタの様子は確かに気持ちよさげで、ついにおれもためらいつつ真似をした。ふはあ。全身からちからが抜けた。だらだらまわる埃だらけの扇風機の風が、汗ばんだ腕をふらりとかわかした。
 五歳でこのからだになった。以来離れたくても離れることのできなかった車いすや紙おむつから、あっけなく解放された気分だったのをよく覚えている。
 はあ、と息をつき、ふと横を向く。リタの全裸をなんとなく眺める。本当に丸出しだな。く、と笑うと、気づいていたらしいリタも笑っていた。
 こんなの見て喜んでるの、あんたくらいだろうねえ。
 別に喜んでいるわけじゃねえよ。ふん、と鼻を鳴らしてやった。リタは頭をクッションに乗せ、おれをいつくしむような、やわらかな笑みを唇に乗せていた。
 ああ、気持ちいい、最高。
 リタはまた大きな伸びをして、解放感にゆったりとひたる。夏の日射しが、リタの薄い腹あたりを、焼くように照らした。
 
 ほらよ。
 しばらく寝そべったあと、おれたちは身を起こした。リサイクルショップで買った小さな冷蔵庫から、レモンハイの缶を二本取り出し、一本をリタに渡した。かしゅ、と音をたてプルタブを開け、飲みはじめる。細い喉が動き、貧弱な乳房の奥を流れていく。
 ふぅ、と眉根を寄せた後、リタは最高、と微笑んだ。
 おれもリタに並んで座り、レモンハイを飲む。開け放した古いサッシ窓から、なまぬるい風が垂れ流れてくる。
 駅前の雑居ビル群のなかにうずもれた、築四十年のアパート。おれたちの巣である一階の角部屋からは、ヤキトリ屋やおでん屋、スナックやバーの入ったビル、脂っこいにおいが年中ただようラーメン屋、ほぼラブホテルと化しているビジネスホテル、といったものが窓越しに見える。一階だが地面の高さの違いからか、向こうからはおれたちの姿は見えない。まあ見えても別にいいんだけど、とリタにはかまう様子はない。
 青空は、蜘蛛の巣みたいに張り巡らされた電線ごしにしか見えない。
 七月はじめの土曜午前十時。朝からみんみん蝉の鳴き声が殺気だっている。ひとのざわめき、運送屋のトラックが荷おろしする音、けたたましいクラクション。
 そんななか不意に、救急車のサイレンが響き、通りすぎていく。最近は一日二、三度と走る日も少なくない。リタ曰くの、例の疫病で運ばれる患者が多いのだろうか。
 なあ、エアコン交換、いい加減大家に頼まねえか。
 おれは、こないだから繰り返していることをまた口にした。部屋に備え付けの古いエアコンは、夏のはじめに壊れてしまっていたのだ。
 さすがに暑いよ。おれらもいつか倒れちまう。
 おれは夕べ蚊にさされた鼻の先をかきつつ言った。
 いらないよ、そんなの。
 リタはごみでもはらうように手をひらつかせる。
 このままがいいよ。あたし、あんたとあたしの汗とおしっこのにおいがするこの部屋が好きなんだから。
 リタはレモンハイをぐい、とあおると、赤と黒のメッシュに染めたショートの髪をかきあげた。その色はなぜか血液を思わせた。額には赤い痣がやはり血のように浮かんでいる。右の乳房をぼりぼりかいた。蚊はおれの鼻の後、そこから本物のリタの血を吸ったようだ。

 真夏の夜。まだ例の疫病が吹き荒れる前の夏。
 おれは駅前からぐにゃりと右に曲がった細道の先にある行きつけのスナックで飲んでいた。新しいボトルを入れて飲み続けたが、ひそかに好意を寄せているユキちゃんは相変わらずの人気で、その夜もろくに話せなかった。
 不完全燃焼のまま、夜の駅前を車いすでふらふらしていると、歩道のガードレールに寄りかかっている車いすの女に出会った。
 レモンハイ缶を片手に、きょろきょろと道行く酔客を眺めていた。女は髪を金色に染めていた。どこで買ったものやら、着ていた襟の伸びたTシャツには、come with me、と書かれていた。だがそれより目についたのは、額に浮かんだ血のような赤い痣だった。
 なんだ、こいつ。
 なんとなく面倒になりそうで素通りしようとした時、ねえおにいさん、と女のらしき声がした。まわりを見たが誰もいない。おれに声をかけたのだ。
 なんすか。
 しかたなく応じると、女はナンパって、どうしたらしてもらえるんだろうねえ、とうんざりした様子でため息をついた。
 夕方からさ、ずっとここでこうしてるんだけど、誰もひまなの、とか、飲みに行かない、とか誘ってくんないんだよね。こっちは行く気まんまんだし、なんだったらその後だって全然オッケーなのにさ。
 ああ、やっぱり面倒くさそうだ。さっさと切り上げよう。そう思ったから、飾りも遠慮もなく返事を放り投げた。
 まあ、だろうな。車いすの女なんてわざわざ誰もかまわねえよ。わかんだろ、なんとなく。
 答えながら、少しも自分にかまってくれなかったユキちゃんの姿が浮かんだ。
 女はふうん、やっぱりそうなのか、とまたため息をついた。おれは直後、女が浮かべたその顔に目が吸い寄せられた。それまでの捨て鉢な表情が消えていた。固く唇を噛み、わずかに頬を震わせていた。
 女はその顔を、ガードレールの向こう側に向けた。車が、バイクが、タクシーが、宅配ビザの原付が、なによりひとの群れが、絶え間なく流れ続けていた。
 おにいさんもそうだってこと、か。かわいそうだね。
 女はレモンハイを飲み干し、空き缶をしらんぷりして車いすのタイヤ脇に置いた。
 いっしょにすんな。
 一瞬口ごもった後、舌打ちしてから言うと、女が車いすをすっと寄せてきた。そしていきなりおれの手を取り、自分のジーンズの股間に触れさせた。
 なにを。
 目を見開いてはずそうとしたが、女は力をこめてそれを拒んだ。
 ふくらんでるの、わかる? 今ね、紙おむつにおしっこ漏れてるの。下半身死んだのよ、二年前。男のバイクのけつに乗ったら事故ってね。男は脚折っただけですんだのに、あたしはこんなんなっちゃった。それからおしっこもうんちもわかんない。セックスもね。ね、かわいそうでしょ。
 かわいそう、ねえ。おれは女の下半身から手をはずすと、鼻先にもっていった。
 あたし、くさい?
 女がたずねた。今までのけだるさから一転、なにかにすがるような眼差しに変わっていた。
 いや。おれはかぶりを振った。
 おれと、おんなじにおいがする。かわいそうだな、あんたもおれも。
 女の金髪が揺れた。瞳も揺れた。ふっと笑った。
 なんだか、変に疲れてきた。もう帰ろう、と思い、じゃあな、と言い捨てて車いすをこぎ出した。
 すると女も、空き缶を脇に入れて、車いすをこぎはじめた。どこか別の場所に行くのかと思ったがそうではなく、おれのあとを、少し離れたところからついてくる。途中で別の通りに行くのか。何度か振り返ったがそんなことはなく、やはり女はおれについてき続けた。
 そうしているうち、アパートに着いた。女はやはりおれの後ろにいた。泣きそうな笑いそうな、妙な顔つきだった。入るかと訊くと、女は小さくうなずく。
 ふへえ、と変な息を吐いてから、おれはドアを少し錆びた鍵で開けた。車いすをできるだけ右脇に寄せた。そのあと、女が左脇に車いすをごりごりとこじ入れた。狭いがなんとか入った。入るもんだな。ついつぶやくと、女がほっとしたみたいに唇を緩ませた。
 床にふたりしてどたりと降りると、おれは押し入れから紙おむつのパッケージを取り出し、一枚引き抜いて、ぼんやり部屋を見回している女に放り投げた。いっしょに透明のポリ袋も投げる。女はさっきとはうってかわっておとなしい。
 女は手に紙おむつを持ちながら、おれを見る。やるよ、漏れてんだろ。サイズは合いそうか?
 女はこくりとうなずき、ジーンズのベルトをはずしはじめた。目を背けていると、別にいいよ、と小さなささやきが投げかけられた。
 ジーンズと糸のほつれたショーツを脱ぐと、うっすら黄色にそまった紙おむつが見えた。さっきさわらせられた感触通り、かなりの量が漏れていたようだ。
 女はもぞもぞと紙おむつを取り替えた。部屋にかすかに尿のにおいがしてきた。なじみのあるにおいだ。苦笑いが浮かびそうになる。
 女は新しいおむつを取り替え、汚れたのをポリ袋に入れて口を結んだ。おれはそれを受けとると、トイレのバケツに捨てる。まさか今日はじめて会った女の漏れおむつを捨てることになるとは、夢にも思わなかった。
 トイレのドアを閉め振り返ると、女はころりと横になっていた。すっきりしたのか、それとも疲れたのか。いずれにしても、もう帰れ、という気持ちにはなれなかった。
 あんた、名前はなんてんだ?
 カッシアリタ。
 女は半分寝ぼけた声だ。
 は、とおれが顔をしかめて首を突き出すと、女はふっと笑った。
 カッシアリタ。まあ、リタでいいよ。
 リタはそこまで言うと、幼子みたいにからだをまるめて眠ってしまった。

 昼飯は夕べのうちに買ってきておいた、コンビニの冷やし中華にした。お互い全裸でずるずると麺をすする。汗が少し引く。風は相変わらずぬるいが、肌には心地いい。
 そういや、あいつからラインきたんだよ。
 リタは冷やし中華をすすりながら言った。あいつというのは、リタの友人のことだ。もっとも、リタはもうそうは思っていないようだが。
 結婚するんだってよ、秋に。もしできるなら式に来てほしいって。
 リタはスマートフォンをいじると、ラインの画面をおれに突き出した。添付された画像にはあいつと結婚相手の男が笑いながら写っている。この男がバイク事故をおこし、リタをこのからだにした張本人だ。
 事故後、あいつは毎日のようにリタの見舞いに病院におとずれていたのだが、そこでやはり頻繁に見舞いにきていた男と知り合い、いつしかそういうことになったようだ。
 どういう神経してんだろうな。おれにはわからん。
 ねえ。ちなみにもう赤ちゃんお腹にいるんだって。笑わせてくれるよ。
 リタはそれだけを少しさびしげに言うとスマートフォンを放り投げ、冷やし中華の汁を残さず飲み干した。そして冷蔵庫から麦茶を出して、ふちの欠けたグラスに注ぎ、これも一気に飲み干した。やっぱ、冷や中と麦茶は最強だなあ。少しからだが冷えたのか、小さな乳首がわずかにひきしまった。

 昼飯の後、特にすることもないのでDVDを観る。ジョゼと虎と魚たち。もうなんど観たかわからない。
 ジョゼはかわいそうだね。
 リタは観るたびそう言う。
 どうして。おれもリタが言うたび訊き返す。最後はひとりでしっかりと生きていくんだぜ。
 だからなによ。
 リタはかぶりを振る。なんであんなに好きあってたのに別れるのさ。恒夫もばかだよ。あんなに泣くくらいなら、死ぬ気でそばにいればいいんだよ。ジョゼが歩けないくらいでなにさ。ジョゼも歩けないくらいでなにさ。ふたりだけで見られる景色を、もっと見られたはずなのに。セックスだってあんなにしてたじゃん。ふたりともばかだ。ほんとに、かわいそうだ。
 リタの手が、おれの動かない膝にそっとそえられた。

 夕暮れが近づいてきた。リタは畳の上に大の字になった。きて。飲んでいたアイスコーヒーの缶を捨て、リタの隣に並んでねそべる。安普請の天井は木目が気味悪くゆがみ、まるで幽霊のようだ。
 リタが重なる。互いにふれあう。汗ばんだ肌がべたつきあう。リタの胸にふれると、心臓が動く気配がした。
 リタの手が、そばにあった車いすに軽くぶつかった。痛ったいな。邪魔くさげに手で押す。車いすが弧を描き、ふすまにぶつかる。
 あんたはあたしにとりついた背後霊だね。
 そう言うな。いらだつリタをなだめる。仲よくしてやろうや。こいつらにもおれたちのにおいがしみついてんだから。おれらがほっといたらひとりになるだろ。かわいそうだよ。
 リタはわずかに唇をひきしめ、じって見つめてから、車いすを愛撫するみたいになでた。
 お願い、とリタがつぶやいた。おれはリタの動かない感じない下半身に顔を埋めた。求められるたび、応じるたび。そこにリタにとってのなにがあるのかわからない。でも、おれはリタが望むならいくらでもこたえる。
 視線をあげる。リタの瞳から一粒涙が流れていく。
 かわいそうだな。あんたもおれも。
 あの時の言葉がよみがえる。

 なあ。並んで寝そべりながらリタにささやく。なに。
 おまえ、今でも自分がかわいそうか。
 リタはかすかに唇を震わせてから、おれを強く抱き寄せた。
 あたしと、おなじにおいがする。
 みんみん蝉の声が遠くなり、かわりにひぐらしの鳴き声がまだなまぬるい風に乗って聞こえている。ひとのざわめき、トラックの荷おろし、けたたましいクラクション。窓の向こうでは電線の張り巡らされた夕焼け空が、雑然とした街をおおいはじめていた。



※今作品は、2020年5月20日既発表の作品に、大幅に加筆、訂正したものです。


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