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どうして色んな言語があるの?

日本語、英語、中国語、韓国語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、スロバキア語、ベトナム語、ラチャサップ語、アヤパネコ語…
世界にはたくさんの言語があるね。どうしてこんなにたくさんあるんだろう?言語が一つだったら、みんなと話せて便利な気がするけど。

世界には約7000の言語があるんだって。世界の国の数が今200前後と考えると、一つの国の中でも複数の言語があったりするんだね。
今のような話し言葉、書き言葉、手話、のようなスタイルになる前、はじめ人類は鳴き声のような言葉や、ジェスチャーのような言葉を使ってコミュニケーションをしていたようだよ。そこから音声言語が生まれて、さらにそれを書いて残すための文字が生まれた。その頃にはもう人類は地球の色んな大陸に散らばって集団で生活するようになっていたんだ。
その頃になると似た言語、共通のルーツを持つと思われる言語が近い地域に芽生えはじめる。そこで1つの言語にならないのは、別の地域で生活していると必要な言葉が違ってくるから。たとえば、海の近くで生活している部族には「魚」っていう言葉が必要だけど「たぬき」って言葉は使わない、山で生活している部族には「たぬき」って言葉が必要だけど、「魚」には出会わない。こんな風に、それぞれの生活や文化に合わせて色んな言語が出来ていくんだ。
同じ場所でも、時代が違うと言葉も違うね。おばあちゃんとおじいちゃんがよく使っている言葉を私たちは使わなかったりするし、おばあちゃんは知らない言葉を私たちがよく使うこともあるよ。いまの私たちが平安時代の人の言葉を理解するには、国語の先生に教えてもらわないと読めないし話せないよね。長い時間が経って社会や文化が変わると使う言葉も変わるんだ。

今は飛行機で色んな地域へ移動できるようになったけど、言語が一つだったら、みんなと話せて便利かな?
たしかに便利な一面もあるね。色んな国に生まれた人と交流できるように、日本の学校でも英語の授業があったりするけど、世界で言語がひとつだけだったら、わざわざ勉強して覚える必要もないからラクチンだね。
でもほんとうに世界の言葉が全部ひとつになったらどうなるんだろう。仮に世界の言葉が全部英語になるとき、その過程では、日本に今ある冬至に柚子湯に入る文化や、お正月におせちを作って家族みんなで集まる習慣は無くなってしまうかもしれない。その日本の文化を残したまま世界中を英語にするときにはOsechiっていう英語を新しく作らないといけないね。それがマレーシアでもガーナでもアルゼンチンでも起こるとき、私たちはその言葉を覚えられるかな?なんだか結局ひとつの言語とはいえないような状態になる気がするね。そして少なからず失ってしまう習慣や文化があるだろう。
便利になる反面で、私たちが海外旅行をして食べたことのない料理を食べたり、思いつきもしなかった知恵を教えてもらってびっくりしたり、やったことのない新しい遊びに混ぜてもらったり、そういう時のワクワクする楽しさはなくなってしまうよ。便利じゃなくても、色々あるほうが楽しくて豊かなこともあるんだ。