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皆伝 世界史探求05 BC1200年-BC750年

BC1200年頃-BC750年頃の世界について書きます。
この時代の初めに北半球は寒冷化し、民族の大移動が起こりました。

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皆伝05  BC1200年-BC750年 世界年表 - コピー

世界年表は拡大して観られます。寒冷化の影響でアメリカ大陸では文明が成立して、イタリア、ギリシア、オリエント、インド、中国、半島や列島でも人の移動や文明の滅亡があったことがわかります。


□ヨーロッパ
西地中海

レバノンやシリア海岸部にいたフェニキア人がやってきて、植民地を形成しはじめます。
近現代の「植民地」という用語とは意味が違います。近現代には経済的に支配することで政治的にも影響力を行使するという場合や、実質的に領土としていることを植民地と言います。
古代の植民は、単なる移民です。BC1200年ごろから、北半球が寒冷化します。それに伴って、北にいた民族、部族が南下していきます。そうすると当然、先にそこに暮らしていた人たちと争いがおきます。
レバノンやシリア海岸部のフェニキア人の都市国家も争いや商業ルートが荒らされて、衰退していきます。そして、植民をすることにしました。もともと、地中海中を商売で往来しているので、行先のめどをつけていたと思います。BC12世紀には植民を拡大させていきます。ただ、入試で出題されるような都市はもっと後に作られます。
BC814年、都市国家ティルスのフェニキア人が、現在のチュニジアにカルタゴを建設します。チュニスの郊外にあったようですが、正確な位置は不明だそうです。
他にフェニキア人が植民地を作ったのは、イベリア半島です。ギリシア人はイベリア半島東岸の人たちをイベロ族と呼んでいました。それがイベリアの由来だと思います。21世紀にはスペイン、ポルトガル、アンドラという国があります。
イベリア半島に、カディス(BC10世紀の説と、BC650年以降に作られた説があります).バルキノ(21世紀のバルセロナですね。BC230年にのちの英雄ハンニバル・バルカの父のハミカル・バルカが建設したので、名前に因んでバルキノという説があります。また、神話のヘラクレスが遭難した9隻目の船/Barca nonaを発見したのが由来という説もあります).カルタゴノヴァ(新カルタゴの意味ですね。21世紀のカルタヘナ)、こういう都市を作りました。

□イタリア半島

BC1100年頃、恐らく寒冷化でスイスからインドヨーロッパ語族が南下、移動してきて、イタリア半島は鉄器段階に入ります。BC1000年くらいには、民族の移動がおさまり、イタリア半島の民族配置は完成します。
北から順にガリア人(インドヨーロッパ語族。ケルト人の一派)、
エトルリア人(民族系統は不明)、
古代イタリア人(インドヨーロッパ語族。①ラテン人②サヴィニ人③サムニテ人)。
ガリア人はアルプス以北にいて、時々半島に流入してきます
BC8世紀に入ると、エトルリアは都市国家を作ります。都をヴェイイ/ヴィ―と言います。イタリア半島の南に来ていたギリシア、本土のギリシア人などと交易を開始します。
エトルリア人は靴先の反った靴を履いています。これはフェニキア人の影響と言われています。戦のあとの凱旋式、剣闘の協議、動物の内臓占い、建築様式などは後の共和制ローマ、帝政ローマに受け継がれます。
もっと知りたい人のために 「エトルリア人」(白水社.2009年)という本があります。
伝承では、古代イタリア人のうちで、ラテン人がBC753年にローマを建てたと言われています。後で書きますが、伝承ではトロイが滅亡して、その末裔がやって来てイタリア半島で暮らしていました。そしてロムルスとレムスという兄弟が生まれます。彼らは捨て子となり、オオカミに育てられたりもしますが、長じて、つまり大人になり、テヴェレ川の畔、七つの丘がある地区に居を構えようとします。そして、線を引いて、互いの勢力範囲と定めました。しかし、レムスはなにを思ったのか、その線を飛び越えてしまいます。怒ったロムルスは弟のレムスを殺してしまいます。結果として、ロムルスが始祖としてローマを建てることになったと伝わっています。ローマの由来もロムルスだと言われています。
これは伝承で、実際はエトルリア人がローマを建てたという説があります。一応、伝承では王政が七代続きましたが、初代から第四代までは存在していたかどうかがとくに怪しいと学者は言っています。後期の三人はエトルリア人です。とにかく初期の王にエトルリア人がいたことは事実です。ラテン人は支配されている格好です。

□東地中海

恐らく気候変動による寒冷化が主な原因で、諸民族が南下します。歴史学では確定していませんが、先生が言うには
「試学生が仮に理解するにはいいだろうから、諸民族が南下したことで、元からいた民族が押し出されて、さらに南下した。それが海洋民族、つまり海の民と理解しておけばいい。例えば、ギリシア人が南下したので、既に文化の中心ではなくなっていたキクラデス諸島、クレタ島の人たちが南下して、海賊になった。そして、ヒッタイト、フェニキア、エジプトを襲ったと考えると、理解しやすい。大学に入ったら、事実かどうかを研究しなさい」とのことです。
海洋民族/海島民族が沿岸部を襲います。先生が言うように、海賊と思えばいいのかな。海洋民族の一派であるペリシテ人はエジプトに攻め入り、ラメス三世と戦います。その後、アフリカの出口で、交易路でもあるシナイ半島に居すわってしまいます。のちにユダヤ人/ヘブライ人の仇敵になります。シリア沿岸部のフェニキア人の諸都市も海洋民族に襲われ破壊されたこともあり、さらに植民活動を活発化させます。これがのちにローマと敵対するカルタゴを生む要因にもなるんです。寒冷化と、恐らく沿岸部が襲われたので、セム系のアラム人は内陸シリアに侵入します。これがのちのアッシリアを生む要因になります。アラム人の攻撃を受けて、ヒッタイトは衰退、BC1190年頃小アジア/アナトリア半島のヒッタイト王国は事実上滅亡します。昔は海の民に滅ぼされたと言われていたんですけど、2024年の定説は違うんです。アラム人の諸王国はヒッタイトの末裔を主張して、ヒッタイト風の王名を名乗り、ヒッタイト風の建築を建てたりします。こうした諸王国はBC700年ころにアッシリアに吸収されるまで続きます。いずれにしても、BC1190年ころ、ヒッタイトが秘匿していた鉄器の製造技術が流出し、周辺の民族が鉄器段階に入ります。
イタリア半島にもスイスから南下した一派が鉄器を伝えます。インドに入ってインダス川流域にいたアーリア人は、寒冷化があったので、少し暖かいガンジス川に移動します。南ロシアからモンゴル高原にかけても農耕をやめて遊牧生活に変わり、やがてスキタイなどにまとまっていきます。スキタイはBC10世紀の説もBC7世紀の説もあります。中国で商/殷が滅んで周に変わったことにも影響しているかもしれませんね。日本は縄文晩期ですが、寒冷化して多くの人を支えるだけの食料がなくなったのかもしれませんが、分散的な集落に変わっていきます。九州の人口が増えたみたいですね。ということで、寒冷化で北半球の人たちは南下して、ドミノのように更なる南下を生んだり、王朝の交代につながったりしました。

ギリシア地域
BC1200頃、再びインド・ヨーロッパ語族が南下してきます。ギリシア地域が鉄器段階に入ります。彼らは恐らくヒッタイトの滅亡前後ですが、滅んだあとに学んだのか、ヒッタイトはそもそも北方から来たので、北方の遊牧民の間ではすでに鉄器製造の技術が知られていたのかもしれませんね。遊牧民は定住しないので、遺跡を見つけることが難しく、鉄器も見つかりにくいんですよ。
イオニア人や、アカイア人といったギリシア人の第二波(第一波はミケーネ人)が更に南や東に移動します。押し出されたエーゲ海の島の民族がオリエントに侵入したと仮に理解しておくといいのではないかと先生は言っていましたね。これでオリエント全域が鉄器段階に入ります。
この頃、トロイ戦争が起こります。
ミケーネ連合 対 トロイ です。ミケーネ連合が勝利します。
ギリシア神話によると、
トロイの王子は、三女神のうち、だれが最も美しいかを判定しなさいという役割を任されたパリス。妹は「この(トロイの)木馬は贈り物なんかではない」と不吉な予言をしたけれど、誰も彼女のことを信じなかった。それが巫女のカッサンドラ。トロイのパリスがスパルタの王妃(既婚者)であるヘレネ―を誘拐して妻にしてしまいます。これに怒ったスパルタ王がミケーネに助けを求めることで開戦しました。神話ですからね。歴史的にはスパルタというポリスはまだありません。トロイの総大将はヘクトール。ヘクトールの妻はアンドロマケ(エウリピデスが彼女をモデルに戯曲化しています)。
ミケーネの王はアガメムノン(アイスキュロスが彼をモデルに戯曲化しています)。他にオデュッセウス(ホメロスが彼のことを謳っています。)、アキレス(鎧で覆われていないアキレス腱が弱点なことで有名)。トロイの守りが固いので、ミケーネ連合軍は贈り物だと言って巨大な木馬、木製の馬を贈りました。中には兵士がいっぱい息をひそめて隠れていたんですけど、トロイは疑わずに、木馬を市内に入れてしまうんです。そうしたこともあって、ミケーネが勝利します。トロイはのちにドイツ人のシュリーマンが発掘します。彼の発掘した地層は浅くて、トロイ戦争の時の深い地層ではなかったという説もあります。
ミケーネはギリシア人のポリスなので、ホメロスがトロイ戦争を「イリアス」(トロイの別名)で謳い、オデュッセウスの帰還を「オデュッセイア」で謳うことで、ギリシア人の共通物語化していきます。帰還の途中で、クノッソス宮殿に行って、ミノタウロスを倒したりしています。滅んだトロイの末裔が、のちにローマを建国するロムルスにつながっていくという神話もあります。これも神話です。
BC1100年頃、既にバルカン半島にいたギリシア人のドーリア人/ドーリス人が南下します。既に気候変化や海洋民族の侵攻、地震などで衰退していたミケーネ文明(ギリシア人のアカイア人。アカイア族と言った方が分かりやすいのですが。)がドーリア人の侵攻もあり、混乱の中で滅びます。ドーリア人に滅ぼされたというよりは、滅ぶ寸前だったところに来たということです。滅んだ文明を後にして、人々は南下します。行った先にいた島々からは、また人々が逃げ出します。こういう民族ドミノが繰り返されたようです。
その後、歴史学では暗黒時代と言っている時代に入ります。文化は光、文化は文字という暗黙の了解があるので、文字記録の極端に少ない時代だから暗黒と言っているんですね。暗黒時代の期間は、学者によっても変わります。400年間だったり、100年間だったり。受験生は400年で憶えておくといいかもしれませんね。
けれど、ミケーネ中心部は破壊があったんですが、既に存在していたアテネなど周辺の都市では新たな時代を模索する活動がありました。ドーリア人をはじめとして、イオニア人やアイオリス人などの右往左往がありましたが、BC1000年頃、このすべてギリシア系の民族配置が落ち着くと、部族ごとに王制を持つようになります。以降をギリシア文明と呼びます。

政治的には古代民主王制と言われます。王が政策案の作成と執行権を持ちます。成年の男子が決定権と監督権を持ちます。
経済的には原始総有制と言われます。原子共産主義という表現もあります。奴隷も家畜も土地も共有します。これは、戦争・内乱を防ぐためだったようです。のちに、スパルタのリュクルゴス制度に引き継がれます。
BC9世紀、対立が激化して、守りに適した城壁を持ったポリス(都市国家)を形成していきます。
エーゲ文明は宮殿が中心だったんですけど、この時期以降のポリスは城壁内にあるアクロポリス(神聖な丘)アゴラ(広場)が中心で、城壁外に耕地を持っています。ただ、スパルタは例外的に城壁を持ちませんでした。なぜだと思いますか?自信があるのか、敵意を示さない無防備都市の意思表示なのか、なんでしょうね。

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代表的な都市国家は
ドーリア人のスパルタです。ラコニア地方と言われるペロポネソス半島の南部にあります。伝承では、BC1104年に建てられたことになっています。総有制は維持しています。二人の王がいます。ローマのコンスル(執政官)が二人いるのに似ています。21世紀のスイスでは7人の閣僚が順番で大統領をしますね。
スパルタでは、市民から選ばれた5人が行政・内閣を担当します。60歳以上の男性が元老院(長老会)を作り、監督官もいて、30歳以上の男子市民の民会が立法的な仕事や、実際の行政をします。市民は戦士でもあります。
身分は三つあります。
1.市内に暮らす戦士とその家族はスパルティアタイと呼ばれる市民です。スパルティアタイはクレーロスと言われる持ち分地を分け与えられました。クレーロスは私有地と訳されることもありますが、総有性なので、自然に考えると耕作地として委託されていると理解できます。
2.市外に暮らし市民ではないが、従軍義務のある商工農民で、ぺリオイコイと呼ばれる半自由民です。
3.ヘイロータイ(英語ではへロット)と呼ばれる主に作業をする隷。戦争捕虜になった後に農奴になったなど、ドーリア人でない人も多いようです。スパルタは農業国なんです。だから、物々交換で十分で、貨幣経済のような格差も生まれにくいんです。
他にドーリア人はコリント、メガラなどのポリスを建設しました。ちなみにアレクサンドロス王が生まれるマケドニア王国もドーリア人が作りましたが、ポリスを形成しなかったと言われています。スパルタも城壁がないので、ポリスというには条件が足りないんですけどね。マケドニア王国は都市と都市の間の土地も支配する領域国家/領土国家です。
北部にはエトノスと言われる部族連合体があって、半定住だと思います。

イオニア人のアテネも有名ですね。アッティカ地方にありました。ミケーネ時代にはすでにありましたが、1066年、王の戦死に伴い貴族制へ移行します。それを契機にアクロポリスに貴族が集住(シノイキスモスと言います。市内キスモスと覚えましょう)します。これでポリスの段階に達したようですね。城壁外には自由民と奴隷が暮らします。私有制に移行したので、経済格差が出てきます。市民間には貴族や平民などの身分差があって、これは経済的な格差と言う方が適切ですね。9人のアルコン(執政官)が内閣のように政治を取り仕切ったそうです。アレオス パゴス会というのもありました。貴族会ですね。スパルタの元老院/長老会に相当します。アレオはアーリアと同じで「高貴な」の意味です。18歳以上の男子市民の民会もあって、アゴラに集まって十分話し合った末に、多数決で物事を決めていたそうです。
市民は2、3人の家庭内奴隷を持っていました。例外的にラウレイオン銀山では大量の奴隷を所有する人がいて、集団作業をさせていました。アテネの奴隷は8万-10万人もいて、人口の3分の1と言われています。
基本的に奴隷は家族を持てないなど、人格/基本的人権がありませんでした。オリエントの奴隷は生産の補助的な役割だったので家庭内の仕事が多かったんですが、ギリシアでは生産の主な担い手でした。自由民と一緒に働きます。スパルタの奴隷は国有、共有で、アテネの奴隷は私有です。鉱山や農地で働きます。解放(された)奴隷は市民権がないので、政治に参加できません。アテネは農業もしますが、主に商業国です。だから、メトイコイと言われるアテネに暮らす外国人もいました。商売をしながら兵役にもついていました。21世紀とは国民の概念も違いますから、そういうこともあるのでしょう。
ギリシアには大河はなく、灌漑もせずに雨水に頼る天水農法です。ブドウ、ブドウから作るワイン、エジプトには保湿や傷を治すために肌に塗るオリーヴを輸出していました。

こうしてギリシア文明には各民族、部族がポリスを作り争っているわけです。けれど、同じギリシア人という意識も持っているんです。そうした意識を形作った要因がいくつかあります。
デルフォイというポリスのアポロン神殿で得られる御神託は、ギリシア人に尊重されていました。御神託はyes,noの解答だけ得られるので、王の使者が「明日、戦を始めてもよいか?」「no」などのやり取りとなります。
こうした各地域の神殿を祀って、維持するポリス間の宗教的同盟を隣保同盟と言います。檀家みたいなものですね。
BC776年に始まったとされるオリンピアというポリスでゼウスに敢闘を捧げるために開催された競技会もあります。オリンピックの語源ですね。成人した男性だけが全裸で最初は191m競争をしていました。勝者の頭にはオリーヴの冠が乗せられたようです。その後に、槍投げ、円盤投げ、幅跳び、レスリング(グレコローマンスタイルというものが21世紀にもありますね。グレコはギリシアのことです)、詩の朗読などを競っていたそうです。のちにギリシアはローマの支配下にはいり、ローマがキリスト教を国教化したことにともない、異教の祭りであるオリンピア競技会も禁止されました。最後がAD393年だったと言われています。
ともかく、こうしたものが連帯感を生んで、ギリシア文明を形成していきます。
同胞、つまりギリシア人を「ヘレネス」、異民族を「バルバロイ」(聞きづらい言葉を話す人たちの意味)と呼んで区別していました。
同一言語の人びとのいる土地を「ヘラス」、つまりギリシア人のいる土地と呼んでいました。植民の拡大でヘラスも広がっていきます。イタリア半島南部から小アジア沿岸まではヘラスでした。ギリシア人の植民都市は政治的には母市から独立しています。フェニキア人の植民市は監察官が派遣されていて、税金も払うという違いがあります。

叙事詩というのは一応出来事を主にした詩のことです。叙情詩は感情を主にした詩のことです。盲目の吟遊詩人ホメロスが謳ったものを、誰かが書き記したものが、叙事詩の「イリアス」「オデュッセイア」だと言われています。ホメロスが創作したのではなく、琵琶法師のように受け継がれていく過程で自分の色を混ぜることがあって、そうした継承の積み重ねが現在の形のイリアスのようですね。
「イリアス」はトロイ戦記と言えるもので、アガメムノン.アキレスなどが出てきます。「オデュッセイア」はオデュッセウス/ユリシーズのトロイ戦記後の帰還が書いてあります。ポセイドンの子で一つ目巨人のサイクロプス、海岸に漂着したオデュッセウスを助けたナウシカ姫なども出てきます。「風の谷のナウシカ」の名前の由来だと思います。
オリンポス十二神というオリンポス山にいるというギリシアの高位の神々が尊崇されていました。ゼウス(クロノスとレアの子)、妹で妻のヘラ(婚姻、母性、貞節を表します)、娘のアテネ(知恵と戦)。ゼウスの兄弟のデーメーテール(豊穣)、ポセイドン(海)、ヘスティア(炉、竈の神。甥は酒の神ディオニソス)。ヘパイストス(雷、火山、火、鍛冶。ローマではヴァルカン)、ヘルメス(商業、泥棒)、アポロン(音楽詩歌・医術・芸術)、アレス(戦)、アルテミス(狩猟)。アルテミスはギリシア人より前からいる民族の信仰していた神だったようです。小アジアのエフェソスにある多乳房のアルテミス像が有名。アフロディーテ(愛、美、性)。
ハーデスは冥界の神で、ゼウスの兄弟ですが、十二神には含めません。

パレスチナ
ヘブライ人は川向こうから来た人たちの意味。他称です。つまり、他の人からそう呼ばれていたんです。自称はイスラエル人。JAPANESEのようなものですね。自称は日本人ですから。
話は遡りますが、家長のアブラハムは、メソポタミアを移動しながら暮らしていました。メソポタミア人は、彼らのことを「移動する人々」という意味で「ハビル人」と呼びました。後に、彼らはユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動し、「川の対岸からやって来たひとたち」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれるようになったという説があります。「ユダヤ人」という言葉は、紀元1世紀の歴史家フラビウス・ヨセフスによる造語という説があります。
すべて伝承ですが、アブラハムはイシュマエルとイサクという2人の息子をもうけ、兄イシュマエルは「アラブ民族の始祖」となります。弟イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変え、『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の始祖」となります。イスラエルの子が12人いて、これが12氏族の基礎となります。長子がルベン。4番目がユダ。レヴィは神職だから、ヨセフの子ども二人のマナセ、エフライムが代わりに12氏族に入ります。末子がベンヤミン。下から二番目のヨセフは嫉妬から奴隷として売られましたが、エジプトで首相になりました。飢餓から逃れエジプトに来た兄たちをヨセフは許しますが、ファラオは勢力の拡大を恐れて彼らを奴隷にします。レヴィ家のモーセが率いて出エジプトをし、モーセの死後はヨセフが指導してカナーンへ行きました。
宗教連合社会を形成して、軍事指導者の土師(はじ)を中心に牧羊をしていました。争いが激化して王権が形作られていったようです。そこに、海の民の一派であるペリシテ人が侵入してきます。パレスティナという地名は、ローマ人が付けました。ローマに抵抗するユダヤ人の最大の敵であるペリシテ人の名をユダヤ人が暮らす土地に付けたんです。
イスラエル人は、鉄器を学び海の民に抵抗します。
以下はすべて伝承です。歴史学で確定した事実ではありません。けれど、入試に出題されることもあります。
中心となる十二部族/支族がBC1020年頃にヘブライ王国/イスラエル王国を形成します。十二は完全な数と考えられているため、象徴的に十二としたのであって、実際に12氏族がいたかどうかは不明だという説があります。
首都はギブア。始祖はサウル。ユダヤ教の聖書によると「羊飼いのダビデ(DAVIDデービッドですね)はペリシテ人の巨人兵ゴリアテと一騎打ちとなった。彼は額に石をぶつけ、失神させている間に、ゴリアテの剣で相手の首を切り取ったことで英雄視され、サウルに引き立てられた。サウルが戦死したので、第二代の王にはユダ部族から選出されたダビデが就いた」という趣旨のことが書いてあります。但しダビデの実在は確認されていません。BC1004年頃、都をイェルサレムに移します。ダビデ以降、王位はユダ部族の親から子へ引き継ぐ/世襲となり、ユダ部族以外の不満が溜まったようです。BC965年頃から、第三代の王がソロモン。「ソロモンの栄華」と言われるほど栄えました。シバという国の女王が来て、ソロモンとの間に子をなしたとも言われます。シバがどこなのかは学者の間でも意見が分かれています。イエメン、エチオピアなどの説があります。
ソロモンの後は、部族間対立と税金問題から国は分裂したそうです。
BC930年に分裂したイスラエル王国は都をシケムへ(一年もないので最初の都としないテキストもあります)、次いで同年ペヌエルへ置き、ティルツァを経て、BC880年にサマリアへ(-BC722)
①北のイスラエル王国(首都サマリア)には、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族、レヴィの一部が集まりました。
②南のユダヤ(ユダ)王国(首都イェルサレム)。ユダ、ベンヤミン、レヴィの一部。
21世紀、2021年時点のイェルサレムはイスラエルが全部「占領」(この表現はアラブが支配していた事実を基点としています)し、行政施設も置いています。首都と定めていますが、国際社会は認めていません。米国はトランプ大統領の時に認めました。日本など他の国の大使館はテルアビブにあります。アラブ人のパレスティナの方は将来首都にしたいと表明しています。イェルサレムは南西部はアルメニア人地区、南東部はユダヤ人地区、北東部はイスラーム地区、北西部はキリスト教地区です。キリスト教地区には聖墳墓教会があります。ゴルゴダの丘の上にあるようです。伝承では、ヘレナが326年にイェルサレムでイエスの磔刑に使われた聖十字架などの聖遺物を発見し、ゴルゴダ/ゴルゴタの丘と考えたようです。ヘレナの息子はローマ皇帝のコンスタンティヌス一世で、前年の325年に聖墳墓教会をゴルゴダの丘に建てるよう命令していたんですけど、場所がわかっていませんでした。当時あったヴィーナス神殿を取り壊して建てたようです。中にある聖堂がイエスの墓と言われています。
観光客は自由に行き来できるらしいんですが、情勢次第でイスラームの岩のドームへは入れない場合もあるらしいですね。ムハンマドが夢の中で天国へ行った出発地の岩のドームは東にあり、イスラーム地区の南部ですから、ここも含めてのイスラーム地区。だからイスラームにとっても聖地なんです。金ぴかの岩のドーム地区の壁はユダヤ神殿の遺跡で、ユダヤ人地区側では嘆きの壁と言われています。最後の晩餐の部屋も現存しています。マリアもこの都市に永眠しているようです。

シリア沿岸部(現在のレバノンも含む)
原シナイ文字、原カナーン文字の話をしましたが、BC1050年以降をフェニキア文字と言います。フェニキア文字は22文字になり、右から左へ書くことが定まります。エジプトの原初の海ヌンが、フェニキアではヌン(イニシャルでn)と言うと魚を表し、メン/メムが(イニシャルでm)水を表すというのも面白いなあと思います。nが二つでnn、mですもんね。フェニキア文字は、だんだん現在のアルファベットに近い形になっていきます。受験生はフェニキア文字はアルファベットと憶えても構いません。
なぜアルファベットと言うのでしょうか。ギリシア語で最初の文字がアルファα、二番目の文字がベータβだから「アルファ」「ベット」と言うそうです。アイウエオ、イロハ、エービーシーと同じで最初の数文字を読んでいるんですね。日本の中世の書名でも、タイトルをつけていない場合には、冒頭の文章をタイトル代わりとすることはあるそうです。
海の商売人であるフェニキア人の文字は地中海・紅海周辺に拡散しました。だからヨーロッパではアルファベットを使っているんです。

フェニキア人がチルス/ティルス市を盟主(ボス、リーダー)に、地区を統一します。海の民が侵入したので、フェニキア人の諸都市は衰微し、ウガリトなどが破壊されます。精神的中心の神殿や商売のルートなどを失い、BC12世紀以降、地中海沿岸に植民都市を形成していきます。その代表がカルタゴ(BC814年)。監督官を派遣して、母市に税金を納めさせます。母市と植民市は経済関係はありますが、政治関係はありません。

内陸シリア
寒冷化で、セム系のアラム人が侵入し、BC1000 年頃、アラム王国を形成します。別名はダマスクス王国。首都はダマスクス。ここは交易の中心地で、21世紀のシリアの首都です。彼らは紀元前のオリエントの共通語になるアラム語/アラム文字を創始します。アルファベットの一種です。まだパピルス(幅広の植物の葉っぱから作った紙のようなもの)に文字を書き付けていました。海の商売人であるフェニキア人に対し、陸の商売はアラム人が手広くしています。ラクダの隊商を始めて結成したとも言われています。つまり内陸にアラム文字が普及していきます。アッシリア、新バビロニア、アケメネス朝ペルシアでも使われます。オリエントでは複数の文字や言語を使用することが普通なので、従来の楔形文字や、自民族のペルシア語なども使います。
BC10世紀ころ、一時アラム人に侵入されたアッシリアは混乱し、服属していたようですが、アラム人の高度な文化を吸収して アッシリアは興隆していきます。アッシュールからBC883年頃、近郊のニムルド(カルフ=モスル南部)へ遷都します。

メソポタミア
カッシート人の建てたバビロン第三王朝はBC1157年頃に滅亡します。ペルシア系エラム人の侵入によるもので、彼らは遊牧民なので、農耕に適したバビロンには長居せず、すぐに去ります。代わりに南部に陸の商売人であるアラム人が入り定住します。この南部に暮らすアラム人はカルディア人と呼ばれるようになります。以降、バビロンでは短期間に王朝が交代。バビロン第4王朝(アムル人のイシン第二王朝)から8王朝(エラム人)はすべて異なる民族。
バビロン第五王朝は海の国第二王朝とも言われるようですが不明です。第六王朝はバジ王朝と言われますが不明です。アッシリアは第十王朝に相当します。

□□イラン

すでにアーリア系の人々が居住しています。

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南下の過程でアーリア人の一部はインドへ入り、一部はイランに入りました。イランで生まれるゾロアスター教のアフラマズダがインドで生まれるヒンドゥー教のアスラ(阿修羅)と起源が同じというのも、同じアーリア人だからと納得できます。紀元前8世紀にはカナートを作り灌漑を開始。カナートは地下水路のことで、地下を流れる川の位置に当たりをつけて孔を掘っていきます。川に達したら下流の別の位置からも縦孔を掘ります。川は下っているので、自然と水が出ることはありません。いくつも縦孔を掘っていきます。村、都市の近くまで来たら横に孔を掘って、縦孔同士をつなげるます。川の水の一部が都市に流れてきて、最後は横孔だけなので自然に流れ出ます。こうして農地まで水を引きます。飲み水にもしたと思います。カナートは、アフガニスタン、パキスタン、中央アジアでカレーズ、北アフリカでフォガラと呼ばれます。

□□北アフリカ

BC1190年頃、エジプト新王国時代に海の民が侵入します。ラメス/ラムセス三世が追い払うものの、シナイ半島に居座ってしまいます。海にはまだ海賊のようにして海の民がいますし、シナイ半島を通れないので、交易が難しい。そうすると贅沢品なども手に入りませんし、威信財もなくなります。ファラオの権威も低下します。実質的に古代エジプト文明はこの時に終わります。
BC1085年、神官が王位を簒奪し、以降「エジプト王朝後期」と言われます。ファラオの血を継いでいないからか、カリスマ性が恐らくないんだと思います。だから国をまとめるために傭兵のリビア人に頼ります。そのうちにリビア人が強大化し、第22~第24王朝はリビア人のファラオになります。
たいてい異国人の傭兵に頼るとこういうことになります。西ローマ帝国もゲルマン人の傭兵オドアケルによって滅ぼされます。西晋も南匈奴に頼って滅ぼされます。トルコ人の奴隷戦士マムルークも地位が上がって頼られるようになるとクーデタを起こしますしね。歴史に学びましょう。
BC11世紀以降は末期王朝と言われます。第25王朝がアッシリア、第26王朝がペルシア人のアケメネス朝ペルシア、第30王朝がギリシア人(マケドニア人)のアレクサンドロスということになります。
テヘネ・アル=ジャバル(テヘネの山/丘)村近くのアコリス遺跡は、石灰岩の丘上にあるので、農業用水や地下水の影響を受けにくく、有機物の遺物が腐らずに残りやすい。複数のサンダルや靴が出土しています。上流階級に限られていた履物は、第21王朝の時代には庶民にも普及していたことがわかっています。貴重ではあるので、多くの靴に修復した跡があります。ヤギの皮革製で、上部と靴底部分が縫合され、飾り紐がある靴もありました。

□□サハラ以南

BC10世紀、ヴィクトリア湖、マラウィ湖などの大湖付近は鉄器段階に入ります。先進地から遠いと1000年くらい遅れるんですね。
日本も産業革命の始まった英国からは遠いので遅いんですよね。英国が技術の開放を許可して、ベルギー、フランス、米国の北部に1830年頃、ドイツに1834年頃に波及して、日本に産業革命の波及があるのは1870年代頃ですもんね。こういうことに気づくのも私が歴史を好きな理由です。21世紀の問題も含めて、物事を理解するのに応用が効くんですよね。

BC9世紀、スーダンにクシュ王国が建てられます。世界史上初の黒人王国と言われています。首都ナパタ。この国は、メロエに遷都して、メロエ王国と名を変えてAD4世紀まで続きます。
直径91mの墳丘墓を作ったそうです。巨大ですね。
同じ頃、エチオピアにエチオピア王国(AD10世紀まで続く)形成という伝説があります。事実ではないことはわかっています。さっきも書きましたが、ソロモン王に贈り物を届けたシバの女王はエチオピアの女王という伝承があり、ソロモン王の子が始祖のメネリク一世という伝承があります。それでエチオピア人は黒人ではなく、白人の血を引いているという説を主張する人がいます。ユダヤ人は白人ではないので、シバの女王の子は白人ではないし、王の人種が変わったからと言って、民衆の人種が王と同じになるわけではないんですがね。どういう理解なんでしょう。
BC8世紀、またはBC5世紀、西アフリカが鉄器段階に入ります。アフリカに多い赤土は、ラテライトと言われ、鉄分が豊富なので、製造技術さえあれば、鉄器を自作できます。
もっと知りたい人は「アフリカ史」(川田順三.山川出版.2009年)を読むといろいろ書いてあります。

□□インド

BC10世紀中頃、アーリア人の部族集団がインダス川からガンジス川に移動します。寒冷化に伴う動きだと思います。
そして、遊牧をやめて、徐々に灌漑農耕の開始と都市国家の形成をしていきます。鉄器段階に入ります。牛を聖なるものとし、火の神アグニ、雷神インドラを崇拝しました。
①②がそろった段階でバラモン教の誕生と言います。BC8世紀までには
宗教文書で権威付けられたバラモン中心の祭儀宗教が成立していました。
バルナ制/種制/ヴァルナ制の誕生。BC8世紀中ごろまでに。
要するに高貴な種(種とは、今でいう遺伝子)を持つ司祭、下等な種のシュードラという概念に基づく身分制度です。
バラモン(司祭)-クシャトリア(貴族・戦士)-ヴァイシャ(平民/庶民)-シュードラ(奴隷等。先住民であるドラヴィダ人が多い)という四つの身分を作りました。後の時代に、大工、靴磨き、陶器職人などのもっと細かな職業分類/ジャーティと結びついて、カースト制へ変わります。
アウトカースト(カーストにさえ入れない人たち)は不可触選民/アチュータと呼ばれます。ホームレスと言う意味のパリアはアウトカーストの俗称。ガンジー(20世紀の人)は彼らをハリジャン/神の子と呼びました。つまり尊重しようということが込められていると分かります。彼らはダリットと呼んでと言っているようです。
ヴェーダの誕生
ヴェーダは「宗教的知識」の意味ですが、内容は神々への賛歌。賛歌とは、神を讃える歌のこと。のちに作られたものも含めて、四つのヴェーダがあります。「リグ・ヴェーダ」(世界最古の賛歌。インドラ/帝釈天などが登場)、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」は神々への賛歌、「アタルヴァ・ヴェーダ」は呪術を書いたもの。本に序文、目次、本文、巻末資料、後書きなどがあるように、ヴェーダも中身を四種類に分類できます。BC4世紀までには四分類が誕生しました。各々のヴェーダはサンヒター(ここだけをヴェーダと言う人もいる。ここが「本集」と訳されるくらい主要部分だから)・ブラーフマナ(注釈)。アーラニヤカ(解釈)・ウパニシャッド(巻の最後、巻末にある)。
ウパニシャッドは「傍らに座る」「近くに座る」の意味で、「奥義書」と訳されることが多いですね。内容は哲学で、要するに輪廻を抜け出る=解脱の方法を書いています。結局のところ、梵我一如=宇宙の根源であるブラフマンと我/アートマンは本質的に同じものだと悟ることで解脱できると書いています。元々は、祭礼に偏りすぎて信仰がおろそかになっていると考えた一部のバラモンたちが、内面を見つめて信仰について考えるために生まれたのがウパニシャッドです。だから、各ヴェーダに付加されたんですね。各々のヴェーダに収められたウパニシャッドの集成を「ウパニシャッド」ということもあります。集成と言うのは一冊の書物ではないということ。仏のバルザックが「ゴリオ爺さん」などを含む80以上の作品群をまとめて「人間喜劇」と称していたのに似ていますね。BC500年ごろ/BC4世紀末までにヴェーダから独立しました。ウパニシャッドの書く内容を信じて、考える哲学をウパニシャッド哲学と言います。
「バラモン教」、「リグ・ヴェーダ」と「ヴァルナ制」は8C中までには「誕生」しましたが「成立」は明確ではありません。「ウパニシャッド」はBC500年頃までには遅くとも編纂=「誕生」しました。ウパニシャッド哲学となると、BC4世紀/4世紀中頃からと言われています。
バラモン教は一神教ではなく、川や山や海や空や森などの自然には神がいる、自然は神の別の姿だという自然神崇拝の宗教です。バラモン教の世界観は、人間の現世での行為がカルマ/業となり輪廻する来世を決めるというもの。輪廻は不安だから、普通の人は解脱を望みます。解脱の理論化、どうやったら解脱できるかを明確にしたものが「ウパニシャッド」。時代が経過するにつれてバラモン教に民間伝承などが付加されて、バラモン教はヒンドゥー教に変わっていく。だから、ヒンドゥー教には始祖/教祖はいません。いつ成立したかも明確には言えません。その過程で、バラモン教では脇役だったシヴァ神やヴィシュヌ神の地位が上がっていきます。主役級になっていきます。

□□中央アジア/南ロシアからモンゴルの草原地帯


気候変化により寒冷化し、農耕から遊牧に転換します。部族連合を形成します。これを騎馬遊牧民と言います。黒海北岸にはキンメル人、カスピ海沿岸にはスキタイ人(アーリア系、アルタイ系の説があります)、ソグディアナから西トルキスタンにはイラン系の塞族/サカ(スキタイ系とも言われますが、不明。釈迦/シャカとは無関係と言うのが定説)、トルキスタンには匈奴が台頭します。いつ現れたかに定説はありません。この時代が最も早い説なので、ここに書きます。
遊牧民は一か所にずっととどまっているわけではなく、他の有力な部族や民が移動すれば空いたところへ入るし、圧迫されて移動することもあります。農耕民は田畑を捨てては暮らしていけないので戦う、簡単に逃げ出さない、移動が少ない。こういう違いがあります。
スキタイは馬の咥える轡(くつわ)、脚を乗せる鐙(あぶみ)、鞍を発明し、最初の騎馬遊牧民になったと言われています。海の道/シーロードよりも、砂漠のオアシスロード(のちにシルクロードと言われます)よりも、草原の道/ステップロードの方が移動は早く、文化の伝播も早いんですよね。帆船、駱駝、馬という乗り物の違いがありますからね。中国の彩陶、馬術も遊牧民から伝播したのではないかと言われています。三足灰陶の鬲(れき)は、表面積の広い太い脚だから、脚の間に薪をくべれば、早く熱が伝導し、早く湯が沸きます。陶器の上に甑(こしき)を乗せれば、早く米が蒸せる、たける。これも遊牧民の革袋にヒントを得た説があります。青銅器も中国では西の三星堆、北の商から始まります。遊牧民と接触しやすい土地なんですよね。北半球では南の方が先進地になって文化を広めたというのは稀なことだと思います。たいていの文化は北から来ます。ヒッタイトも北から来ましたしね。地図を見ていればこういうことにも気づきます。
スキタイのとどまった人はペルシア人と混血し、ソグド人になった説があります。遊牧と農耕をし、黒海北方に移動した人はスラヴ人と混血し、やがてノルマン人がルーシを立て分家がキエフを立て、キエフがスラブを従え混血する、そのロシア人の基層になります。

□□中国

伝承では、BC1122年に殷周革命があったとされています。事実ではありません。革命とは天の命令を革/あらた(新)にすること。孟子の言葉を借りて易姓革命とも言います。レ点がついて、「姓を易える」と読み、「姓を替える」こと。つまり、殷王家の「子」という姓から、周王家の「姫(き)」という姓へと、替わったということです。
商/殷の紂王(ちゅうおう)は神に権力を授かったけれど、堕落して悪い王になったからもはや正統性は失った、これを打倒することが正当なことだ、革命はいいことなんだと主張して、商/殷の西方にあって、商に服属していた周が世界初の革命を起こしたという話です。
周は文王の時、宰相の太公望の協力で国力を増しました。今日出掛ければ有望な人物を得るとの占いを信じ、川で釣りをしていた太公望を得たとされています。けれどそれは物語で、実際は商を挟んで西の周が、東の山東省の豪族/大邑と挟み撃ちにするために会談場所と日時を決めて、太公望と会ったという説があります。太公望は山東省の人です。父系の氏族社会において、離れた国で宰相として雇われるのは異常なことで、太公望は罪を犯して追放中だったという話もあります。
文王の子が姫発(武王)。宰相は弟の周公旦。
BC1046(1026)年、殷墟の南の牧野の戦で、周が商を打倒する。

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周王朝。首都は鎬京。国名は周または西周、東の洛邑に遷都後は東周と呼ばれます。始祖は武王(文王ではありません)。BC1027年、商の反革命を押さえ、完全に滅ぼします。
反革命とは、革命をひっくり返してもう一度王朝を築こうとすること。因みに、孔子は殷の王朝の末裔と言われています。
長江にも版図(領域)を拡大します。
商は黄河中流域の邑制国家(都市国家同盟)の盟主であり、他の地域には同じような邑制国家(都市国家同盟)がありました。周は邑制国家(都市国家同盟)から始まりますが、次第に封建制で盟主としての地位が固定化し、勢力範囲も長江付近にまで拡大していく過程で、邑/城砦の外の耕作地も増えるので領域国家/領域国家といえなくもない勢力の中心になっていきます。

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上の黒線で囲った区域が西安市=長安。西安市=鎬京。
長安≠鎬京。
例えば、江戸幕府は江戸城(千代田区)にありました。21世紀の都庁は新宿にあります。東京都=江戸。東京都=新宿と言えます。
千代田区≠新宿。
長安も鎬京も西安という大きな都市の中に組み込まれています。
まだ先の話ですが、秦の都が咸陽です。阿房宮は秦の始皇帝の宮殿です。

周王朝は宗教とは一線を引きます。
天下人/王・諸侯・卿・大夫・士・庶民という階層がありました。
⓪王
①王の分家が諸侯と言われます。
戴いた土地/封土、身分を世襲します。この土地は公邑と言います。長官としてその土地を支配します。納税と軍役、戦時には食料納付の義務があります。
②王や諸侯の家臣が卿(けい)。大夫のうち大臣になった者を言います。
③大夫(たいふ)
④王から大夫までの身分に仕える士(し)。彼らもまた采邑(さいゆう)と呼ばれる封土を受け取ります。

王家は父系の同じ祖先をもつ擬制的血縁集団である宗族の宗家/本家として、祖先をいやす祖先崇拝を司る儀式をします。それが現実の政治と結びつくという意味での国家宗教とは一線を引くので、政教分離です。そして、礼政一致と言われます。礼とは人への尊崇の態度のことです。⓪と①は血縁で秩序を作る封建制です。
宗族の規則が宗法です。同じ苗字同士は結婚できない外婚制もその一つ。先祖崇拝の仕方などの規定も一つ。
こうした宗法で血縁を結束させ、且つ封土も与える封建制を宗法制と言います。宗法制は「そうほうせい」が一般的ですが、「しゅうほうせい」でも構いません。先生が言うには「そもそも中国語の読みを日本語にした時点で、正解の読みではない。また、当時の発音がどうだったかは今となっては分からない。日本でも女は「をんな」だったのだから、読み方に拘泥する必要はない。」だそうです。
中世ヨーロッパにも封建制はありますが、血縁なしの主従契約制という点が異なります。主人は二人いてもいいし、主人が家臣を保護するという契約を守らないときには契約を解除してもいいんです。ドライですね。欧米は契約社会という伝統がありますが、中世からだったのでしょうか。古代のゲルマン人にも従士制という契約関係があるので、それが源流かもしれませんね。

農民、つまり一般民は政治とは隔絶されています。だから、民は土地の神である社(しゃ)と、農業の神である稷(しょく)を祭ることで、現世利益を得ようとしているし、みんなで祭るという意味で、共同体生活をしています。

井田制(せいでんせい)/井田法は村落共同体全体に課税する制度。実施されたかどうかが不明なので、出題はされないと思います。
耕作地を〇☓ゲームの升のように9区画に分ける。周囲の升を付与された8家族が、中央の升を共有地としてみんなで耕して、納税する。井田制では村まるごとに納税の義務があるので、税金を払えない人がいれば、みんなでその人の分を補って払わなければいけない。その意味でも、共同体なのです。江戸時代の日本では親がいなくなった後、未成年だけが残された土地を入会地/共有地として耕し、その収穫で未成年を食べさせる文化がありました。成年になると、個人/家の土地として返されたそうです。

貨幣は貝貨(ばいか)、子安貝/タカラガイのこと。周は沿岸部まで支配していないので、子安貝は貴重な物でした。沖縄では、すいじ貝を魔除けとして軒先に吊るす文化があります。そういう呪術的な面も貨幣にはあったから、通用したのかもしれませんね。貨幣と言っても、王が諸侯に褒美として与えたりするもので、実用的な物として流通していたわけではありません。
この頃には青銅器が普及します。青銅器などの属器、碑にも文字を刻む併用の時代です。金石文字の段階と言います。金石文字という文字があったわけではありません。

BC9世紀ころ、寒冷化と戦乱で人々は朝鮮半島に移ったり、南下したりをします。
気候変動は地球のある地域には寒冷化を、ある地域には温暖化をもたらします。また、寒冷化が厳しいところとそうでないところがあります。さらに、、寒冷化が数百年遅れでやってくるところもあります。スイスの辺りではBC12世紀、黄河中流域ではBC9世紀ころに寒冷化したようです。

□□東南アジア

BC11世紀、ヴェトナム北部にドンソン文化が生まれます。中国から青銅器が伝来した文化です。雲南省あたりから広がったと言われている銅鼓が有名な出土品です。青銅器は、主に祭器として使いました。日本の青銅器と同じですね。銅鐸とかも神社の鐘と機能は同じですからね。受験生は、鉄器段階に入ってからドンソン文化と言う説が出題されるので、BC5世紀と憶えてくださいね
ヴェトナム中部には、少なくともBC1200年-BC1000年には、ロンタイン文化がありました。新石器段階です。やはり、東アジアでは先進地が中国なので、ヴェトナム北部は早く青銅器が伝わりますが、中部にはまだなんですね。花瓶と呼ばれる器が出土しました。用途は不明です。
少なくともBC750年頃には青銅器段階のビンチャウ文化がありました。これらは初期サーフィン文化と言ったりします。受験生は、サーフィン文化もBC5世紀の鉄器段階からと憶えてください。教科書というのは最新の研究から10年遅れで記述されるので、ほんとは違うんだけどなと思いながら対処しましょう。
事実は変わらないんですが、研究者によって名称、把握の仕方が変わるだけです。縄文時代だって、人類が日本列島に来た時から縄文時代だという人もいます。その場合、縄文時代は3万5千年前からとなります。すごいですね。土器を作った時からだという人もいます。つまり、文化や時代に定義がないので、こういうことになるんです。

□□日本列島

縄文晩期。BC1200年頃から寒冷化が始まります。つまり、木の実なども減ります。狩猟採集の対象である食糧が減るので、まとまって暮らしていたら生きていけない。環状集落は分散住居へ移行します。人数が少なければ、お腹を満たすことができます。暖かい九州に人口が移動しました。これは南下してきた半島系の人も含んでいるかもしれません。土器の無文化が起こります。移動が激しくなって、土器を細工している時間がないのか、半島系の人の文化なのかは不明です。寒さを避けて南下して日本へ渡った人がもたらしたのかもしれませんし、寒冷化と関係なく、従来の交流の過程でもたらしたのかもしれません。
BC11C、朝鮮半島南部の水稲が入ってきた説があります。但し、まだ根付いてはいないので、気候変動によってこの文化は廃れてしまったようです。改めて半島系の人が持ち込んできた水稲文化が根付いて、弥生時代になっていきます。
BC9世紀ころ、更に寒冷化します。
BC800/700年頃、半島から多くの人が流入します。

念のため、書きますが、BC9Cというのは、紀元前9世紀のことです。BCはBefore Christ/キリスト以前。Cはcenturyの略です。

□□アメリカ大陸
□□中米

オルメカ文明(~BC400/300年)が続きます。中心はサンロレンソです。
オルメカ美術様式はオルメカの発祥ではなく、各地との交流で生まれた先古典期のメソアメリカに共通の様式です。半人半ジャガー。頭頂部に窪みがあって、頭が二分される人物像。精巧なヒスイ製品、中空の白い幼児土偶、炎の蛇、ジャガーの足、炎の眉、十文字などが典型です。
マヤ地方(グアテマラ)では先古典期の中期/BC1000年頃に、低地で土器が作られます。低地南部のセイバルで公共の広場や、基壇(盛り土)が作られます。受験生は、この時代以降をマヤ文明と呼ぶと憶えてください。マヤ文明はグアテマラから始まり、メキシコに拡大していったというのが通説です。学者が合意した定説まではいかないけれど、反論も出ていないという説です。
2020年にメキシコのタバスコ州で航空機を使ったレーダー測量と地上探査によって、南北1413メートル、東西399メートル、高さ15メートルの巨大な建造物、周囲に舗装された道や人工の貯水池があったとわかりました。出土した木片などの年代から、BC1000年ごろからBC800年ごろにかけて増改築されていたものとわかります。マヤ文明の建造物としては、2020年の発見段階では最古で最大です。マヤ文明は、紀元前1000年ごろから紀元前350年ごろに小さな村々が徐々に発展していったと考えられてきましたが、これを観て違うかもと学者は考え始めたようです。初期に最大のものがあったなんて、どういうことなんでしょう。古代史は現物が一つ出ると、学説が一挙に変わります。だから、あんまり古い歴史書を読んでも間違った理解をしてしまうんです。
BC9世紀、セイバルで神殿ピラミッドが建設されます。
神殿ピラミッドは階段状の台形に石を積み、その上に2、3の神殿を作るものです。エジプトのように最上部にキャップストーンがないので、尖っていません。広めの平らな面に神殿が設置されます。
もっと知りたい人は、「古代メソアメリカ文明」(青山和夫.講談社メチエ.2007年)「マヤ文明を知る事典」(青山和夫.東京堂出版)
を読むといいかもしれません。
建築としては、BC500年~BC300年頃、オアハカ盆地のモンテアルバンの頂上を平らに整地して、20以上の神殿が作られました。球戯場もありました。祭祀センターにして軍の司令部だったようです。モンテアルバンは、サポテカ文明の中心地です。モンテはマウンテン、山の意味ですね。いつ始まった文明なんでしょうか。BC1400年頃、BC900年頃、BC600年頃、受験生としては、はっきりしてほしいですね。モンテアルバンに都市を作るBC500年頃からとする教科書もあります。これも事実は変わらないのですが、いつからサポテカ文明と言おうかという話です。BC500年頃-AD750年頃は確実にサポテカ文明と言えるそうです。

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墨はメキシコの意味です。地図の墨高原はメキシコ高原です。

□□南米 

アンデス文明。BC1000年頃、チャビン文化が広がります。広がりってなんでしょう。成立はBC3000年頃-BC2000年頃の説があるからです。

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メソアメリカ文明の中心は大体ペルーにあります。これより南だとウユニ塩湖と書いてありますが、乾燥地帯なので、水がないんです。アタカマ砂漠なんかもありますしね。因みに、赤道がエクアドルのあたりを通っています。スペイン語でリーニャ・エクアドールは赤道線という意味になるそうです。スペインが中南米の大体を支配した時期もありましたからね。
チャビン文化は、ペルー北部のアンデス高地(リマ北部)ですね。BC1000頃建設の宗教施設チャビン・デ・ワンタル遺跡が有名で、ジャガー神を信仰していました。雨水農耕なので水が神聖、だから蛇や鰐も信仰していました。宗教観は拡大して、周辺で共通していきましたが、政治的統一はありません。海岸部では漁労も続きます。
先生が言うには
「試学生は、茶瓶文化、茶瓶でワンタン遺跡と覚えてもいい。また、アンデス文明は三文字文明と覚えてもいい。チャ ビ ン、モチェ、ナスカ、シカン、チムー、インカなど三文字が多い上に、三文字のピサロに滅ぼされるから。メソアメリカ文明は偶数文明、または四文字文明だ。オルメカ、サポテカ、トルテカ、アステカで、コルテスに滅ぼされるから。もちろん例外もあるから、偶数文明と憶えれば、マヤ、テオ ティ ワカン(小文字は無視して六文字)も入る」とのことです。憶えやすいですね。

今回はBC1200年頃-BC750年頃の世界について書きました。
次回はBC750年頃-BC500年頃について書きます。ギリシア文明の興隆期、都市国家ローマの勃興、アッシリア、アケメネス朝のオリエント統一支配、中国の春秋時代ですね。仏教、ジャイナ教、儒教、ギリシア哲学、ゾロアスター教も出てくる思想・宗教の時代でもあります。
次の皆伝06はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n06b394069ec1

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